読まれてないなら存在してないも同然。
最近、母さんに会っていない。友だちにも会っていない。
連絡もないし、こちらから送ることもない。私は日々何かしらに追われ、仲のいいだれかの存在はどんどん窓の向こう側に遠ざかっていく。ある日突然電話がかかってきて「長らく話してないなと思って」というような、ただ存在を確かめるための話も誰かとすることはなくなった。
観測されないものは存在していないも同然。
星が代表例だろう。冥王星はもはや惑星ではないと言われるが、それでも我々が望遠鏡を向ければ、そこにいることを確かめられる。望遠鏡を下ろした瞬間、冥王星は静かに「いや、もう惑星じゃないので。なんなら準惑星なので」とつぶやきながら闇に溶けるのかもしれない。宇宙の果てで消えゆく星も、観測されなくなったとたん存在そのものを放棄する。
量子論の世界では、粒子は観測されるまでは曖昧な状態にある。量子論の話になると必ず出てくる猫。箱を開けるまでは生と死が重なった「観測不能」の状態にある。観測されて初めて状態が決定するわけだ。
はじめてこれを聞いたとき、私は奇妙な安心感を覚えた。
「ならば俺は何者にでもなれるじゃないか。まだだれにも観測されてないんだから」
私たちの発信活動や創作もまた、観測問題に似ている。文章を書いてもそれが読まれなければ存在しないも同然。SNSで「いいね」がつかない投稿は、デジタルな重力の底に落ちていく。読まれなければ価値がない。見られなければ価値がない。数が多くなければ価値がない。
断言できる。価値とはそれを必要としてくれる人の数である。価値とは需要の数のことを言う。
けれど、ここでひとつ気づく。
観測されるためだけに存在するものと、観測される必要のないものの違いに。惑星も粒子も、見られるためにそこにいるわけではない。それらは観測されようがされまいが、ただ在り続ける。
では人間の営みは?
観測されることを前提として行動していないだろうか。最近は観測されることを前提に行動するマヌケがあまりに多い気がする。私もそうだ。
私が文章を書くのは書いていないと「自分」が成立しないような気がするからだ。厳密にいえば、書いたものを誰かに読んでもらっているという実感がないと自分が成立しないような気がする。
ということは私はどこかに観測者がいないと成り立たない存在なのか。なんと心もとない私。
そう考えると観測されないもののほうが、はるかに強い存在意義を持つのではないか。
「そこにいるかどうかわからない」が、実は「確実にそこにいる」ことの証明になっているからだ。母や友人が観測不能の領域にいる今、彼らは逆に最も強固に存在しているとも言える。
そういうわけだから私は今日も書く。
読まれないことの強さを信じて誰にも観測されない文字の羅列を書いてみる。
知らない誰かに観測される未来の自分に向けて書いてみる。
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