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超然主義と無敵の人。

無敵の人。
ひろゆきが言い始めたらしい。
無敵の人。言い得て妙。失うものが何もない人。この社会課題について、ここで解説するつもりはなくて、というか、私には無理だ。解説なんかできん。そんな勉強してるわけじゃない。


超然主義という言葉が日本史の授業で出てきたとき「響きが好きだ」と思ったことを覚えている。超然主義。意味はこうだ。

超然主義とは、外の動静には関与せず、超然として独自の立場を貫く主義のことである。

一般的には、大日本帝国憲法発布後の帝国議会開設から大正時代初期頃までにおいて、藩閥・官僚から成る内閣が採った立場を指し、内閣は議会・政党の意思に制約されず行動すべきという主張を言う。また、この主義を採る内閣を超然内閣と呼ぶ。 

wikipedia : 『超然主義』

超然主義が招いた弊害について、戦前日本を引き合いに何か書くつもりはない。この記事で書きたいのは、生き方の超然主義だ。軽い言葉に言いかえれば、外には流されず、自分の意志を持っている人、あるいはそういう生き方、みたいなイメージで私は捉えている。



振り返ると、超然とした人に憧れた大学時代を過ごした。この記事でも書いたが、私は大学を除籍になっている。モラトリアムをこじらせて。超然を拡大解釈しすぎて。

周りがせっせと単位のために授業を受ける中、私は授業に出なかった。周りがあくせくテストの過去問対策をする中、私はテストすら受けなかった。そもそもなぜ単位が必要なのか理解できなくて。みんな誰から教わったんだ?と思ってた。

周りが就職活動で合同企業説明会のために東京にいく中、私は説明会おわりの友だちと明治神宮を散歩していた。「おぉ、これが清正の井戸かぁ」つって。

周りが就職して、くどくどと会社の愚痴を言う中、私は眼鏡屋でバイトして、家に帰って金麦を飲んでいた。檀れいのCMにのせられて。なんなら、季節ごとにデザインが変わる金麦の空き缶を部屋に飾っていた。お洒落かな、と思って。


私のことを不思議がる友だちもいた。

「そんなんで大丈夫か?」

「ずっとバイトで老後の年金はどうするの?」

「あぁ、大丈夫だよ」と答えながら、正直、めっちゃ不安だった。もうめちゃくちゃ不安。でも大丈夫だと思っていた。超然としていた。私を昔から理解してくれる友だちは「うらやましいなぁ」と言っていた。ちっぽけな自尊心を尊重してくれた。やさしい。

19歳から5年間、モレスキンのノートに毎日、日記をつけていた。モレスキンのノートを選ぶあたり、人間性が垣間見える。アイデアはいつでもモレスキンから出てくる、と思ってた。

いま、その日記を見てみると
「超然主義」というタイトルの日がある。
読み返してみると、こう書いてある。


「超然としていたい。なんと言われようと気にしない。周りに流されず、正しいと思う生き方を超然とすすんでいきたい。そして社会の役にたつ。俺なら余裕だ」


恥ずかしながら坂本龍馬にも影響された。


成功するまでやれば失敗はありえない。
途中でやめるから、諦めるから成功しない。

これは誰が言ってた言葉だっけ。


嫌われる、失敗する、笑われる、心配される。
そんなのは気にしない。
自分がいいと思っていればそれでいい。
超然主義だ。


私はこの生き方が性に合っていると思っているけれど、これはある意味での「無敵の人」である気がする。


語弊があるが、人に迷惑をかけてもいいと思う。助けは借りた方がいい。助けてくれる。でも人を傷つけてはならない。

人を傷つけては絶対ならない。超然として道を進む。人を傷つけず、超然として人と関わる。やさしく。違う意味での無敵の人。悟空のような。そういう人生の人はたくさんいるはず。だから言っておきたい。絶対にあきらめないで。


悟空はフリーザとかぶっ飛ばしてるけどね。


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