超然主義と無敵の人。
無敵の人。
ひろゆきが言い始めたらしい。
無敵の人。言い得て妙。失うものが何もない人。この社会課題について、ここで解説するつもりはなくて、というか、私には無理だ。解説なんかできん。そんな勉強してるわけじゃない。
超然主義という言葉が日本史の授業で出てきたとき「響きが好きだ」と思ったことを覚えている。超然主義。意味はこうだ。
超然主義が招いた弊害について、戦前日本を引き合いに何か書くつもりはない。この記事で書きたいのは、生き方の超然主義だ。軽い言葉に言いかえれば、外には流されず、自分の意志を持っている人、あるいはそういう生き方、みたいなイメージで私は捉えている。
振り返ると、超然とした人に憧れた大学時代を過ごした。この記事でも書いたが、私は大学を除籍になっている。モラトリアムをこじらせて。超然を拡大解釈しすぎて。
周りがせっせと単位のために授業を受ける中、私は授業に出なかった。周りがあくせくテストの過去問対策をする中、私はテストすら受けなかった。そもそもなぜ単位が必要なのか理解できなくて。みんな誰から教わったんだ?と思ってた。
周りが就職活動で合同企業説明会のために東京にいく中、私は説明会おわりの友だちと明治神宮を散歩していた。「おぉ、これが清正の井戸かぁ」つって。
周りが就職して、くどくどと会社の愚痴を言う中、私は眼鏡屋でバイトして、家に帰って金麦を飲んでいた。檀れいのCMにのせられて。なんなら、季節ごとにデザインが変わる金麦の空き缶を部屋に飾っていた。お洒落かな、と思って。
私のことを不思議がる友だちもいた。
「そんなんで大丈夫か?」
「ずっとバイトで老後の年金はどうするの?」
「あぁ、大丈夫だよ」と答えながら、正直、めっちゃ不安だった。もうめちゃくちゃ不安。でも大丈夫だと思っていた。超然としていた。私を昔から理解してくれる友だちは「うらやましいなぁ」と言っていた。ちっぽけな自尊心を尊重してくれた。やさしい。
19歳から5年間、モレスキンのノートに毎日、日記をつけていた。モレスキンのノートを選ぶあたり、人間性が垣間見える。アイデアはいつでもモレスキンから出てくる、と思ってた。
いま、その日記を見てみると
「超然主義」というタイトルの日がある。
読み返してみると、こう書いてある。
「超然としていたい。なんと言われようと気にしない。周りに流されず、正しいと思う生き方を超然とすすんでいきたい。そして社会の役にたつ。俺なら余裕だ」
恥ずかしながら坂本龍馬にも影響された。
成功するまでやれば失敗はありえない。
途中でやめるから、諦めるから成功しない。
これは誰が言ってた言葉だっけ。
嫌われる、失敗する、笑われる、心配される。
そんなのは気にしない。
自分がいいと思っていればそれでいい。
超然主義だ。
私はこの生き方が性に合っていると思っているけれど、これはある意味での「無敵の人」である気がする。
語弊があるが、人に迷惑をかけてもいいと思う。助けは借りた方がいい。助けてくれる。でも人を傷つけてはならない。
人を傷つけては絶対ならない。超然として道を進む。人を傷つけず、超然として人と関わる。やさしく。違う意味での無敵の人。悟空のような。そういう人生の人はたくさんいるはず。だから言っておきたい。絶対にあきらめないで。
悟空はフリーザとかぶっ飛ばしてるけどね。