【メタ認知】自分のメンタルと社会構造を客観視することの重要性について。
高校受験を控えていた14歳の私は、実家のパソコンを起動し、当時黎明期のインターネットを使って「勉強法」を調査していた。
その中で不思議なサイトに出会う。
勉強法以前に「メタ認知」が大事なのだと唱えているのだ。サイトをどこまで細かく見ても何度も口酸っぱく「メタ認知を鍛えよ」と書いてある。
14歳の私は「メタ認知? なんだそれ?」とよくわからなかった。
いまでこそメタ認知という言葉は一部では市民権を得ているから、多くの方が聞いたことのある言葉だと思う。
「メタ認知」という言葉の持つ意味を私なりに解釈してここに書くのなら「自分の中に客観的視点を作る営み」である。
空から自分を見つめる、であるとか、常に自分と対面した鏡を心の中に持つ、みたいなことだ。
そのサイトで紹介されていたメタ認知の鍛え方は至極単純で、たとえば参考書を開いて問題を解いているとき「いまの自分は集中できているな」と気付いたなら、ノートの右上に「正」の字を書けというものだった。
1回目に気付いたのなら「一」の字を書き、回数を重ねて「正」の字にする。これを何度も繰り返すことが大事なのだと書いてあったので、私はそれの何がいいのかを考えることもなく、ただ「正」の字を書いていった。
そのサイトにはさらに「この問題がなぜ出題されているのかの出題意図を考えることもメタ認知といえる」とか「数学の問題を解くときは解法を横断的に考えよう。一見すると繋がらない図形の知識が整数問題を解くヒントになることもある」みたいなことも書いてあった。
いまこれを思い出してみると「なるほどたしかにその通りだ」と思うもので、あのサイトが言いたかったことは自分を客観的に見つめることだけがメタ認知なのではなく、見えない出題者の意図を俯瞰して考えることもまたメタ認知、ということだったのだろう。
さきほど私は「『メタ認知』という言葉の持つ意味を私なりに解釈して書くのなら『自分の中に客観的視点を作る営み』」と書いたが、ではなぜ「客観的視点」を持つことが大事なのか?
なぜなら客観的視座に立てば全体の状況を把握して変化に柔軟に対応することできるので、問題の解決策を冷静に導き出しやすくなるから、ということになる。
ことわざに「人のふり見て我がふり直せ」というものがあるが、これもある意味で客観視のことを言っているのであり、さらにメタ認知風にこのことざわを昇華するのなら「我がふりを見て我がふり直せ」とも言える。
かくして14歳の私はメタ認知のやり方を覚えた。
自分の挙動を自分で俯瞰して眺め「こんな言い方をするとよくないな」と思うクセがついたし、誰かがその場にそぐわない挙動をしていると「こういう人にはならないように」などと思うようになる。
思うに職場でパワハラをするような人種はメタ認知が足りない。
SNSで毒を吐く人種もメタ認知が足りない。
もちろん、メタ認知をしたうえであえてその挙動をしているという高度な人種がいることも事実だが、なんにせよメタ認知はこの社会をよく渡っていくために必要な認知能力であるといえる。
さらにいえばメタ認知は社会構造の理解にまで応用できる。
メタ認知がさらに応用できると、自分と周りの人間だけでなく、この社会を取り巻く仕組み、家族の仕組み、ビジネスの構造などもメタ認知できるようになる。
つまり「当たり前に存在しているものがなぜそうなっているのか?」を考えるクセがつくのだ。
たとえば「noteはなぜこのプラットフォームを無料で使えるように開放しているのか?」であるとか、歴史で言えば「なぜ後鳥羽上皇は承久の乱を起こしたのか?」というような「なぜ?」を考えるクセが身につく。
だからこそ「人のふり見て我がふり直せ」だし「我がふりを見て我がふり直せ」ということになる。
それがなぜ大事なのかは先ほど書いた通りで、客観視が問題の解決策を教えてくれるからだ。
これは企業や個人のブランディングにも同じことが言える。
おそらく私はWeb空間において14歳のときに身につけたメタ認知のOSをフルに活用してふるまっていると思われる。
「こういう文章を書けばこういう人間だと思ってもらえる」
「こういう人間はTwitter上では変なことを言わない」
「誰かの中にある私の偶像をあえて破壊するとすれば、次はこういう投稿をすべき」
など、一挙手一投足が変異するわけである。まさにメタ認知だ。
そしてここが重要だが、おそらくこのメタ認知は良好なメンタルの維持にも応用が効くと思われる。
私たちは身体の不調には気をつかうのに心の不調にはなぜだか気をつかわずに「根性が足りない」とか「私が我慢すれば解決する」と思い込み、ひとりで抱えたがる。不思議だ。
たとえば私たちは身体に異常がでると身体を労わるようになる。
腕に傷ができて血が出ていれば消毒して絆創膏を貼るだろうし、胃が痛ければ脂っこいものを控えるようになる。
これは症状が表に出ているからこそ対処ができるものだから、ここにメタ認知は必要ない。身体という、目に見えるものになんらかの事象が目に見える形であらわれるからこそ私たちは対処ができるわけだ。
一方メンタル。
これは目に見えない。精神の傷・疲労は身体とちがって目に見えない。
ここに「メタ認知」を応用するのである。
たとえば私の場合、仕事やプライベートで何事かの抱きれないものがあると、心の中にコップを想像するようにしている。
「いまはコップ60%くらいだ」だとか「いや、場合によっては85%の疲労になるかもしれない」とか「ちょっと待て、これコップからあふれてないか?」などと見立てを立てようにしているのだ。
コップがなみなみになりそうだと気付いたときにやることはふたつ。ひとつは「ボールを自分で持たない」ということと「何もしない」である。
トラブルというものは大抵他人が介在するものであるから、自分がやるべきことを全て返し終えたらあとは全力で休み、何もしない。
だからどうしようもなく疲れたら妻に言うのだ。
「週末は、何もしないをするよ」
こう言うと妻は「いいね」とだけ言う。
身体にできる傷や臓器の病気はだいたいが「炎症」である。患部の周りが腫れて痛みをともなう。
同じように精神の病、おもに「うつ病」がその代表格だが、あれは近年の研究で「脳の炎症」であるという結論がある。
身体に炎症ができると私たちはそこに無理をさせない。腕を骨折しているのにベンチプレス100kgを持ち上げようとはしない。
がしかし、脳が炎症を起こしているのは目に見えないから、いや、見えないからこそさらに頑張らせようとする。これでは炎症が進むばかりである。
今にも心を病みそうな人、いままさに心を病んでいる人は勇気を持って「何もしない」を選択したほうがいい。それしか対応策はない。
こうして自分の不調に気づけるようになると、次は他人の不調に気づけるようになる。「我がふりを見て我がふり直せ」と「人のふり見て我がふり直せ」はコインの裏表のような関係性であり、そこにはメタ認知がカギになるわけだ。
まずは自分をメタ認知するクセを養う。するといつのまにか他人の見えない何かを認知・想像できるようになる。
長くなってしまったが、今日これをここまで書いてきての結論は、見えないものを想像する力の重要性であり、見えないものを想像できるからこそ、なんらかの対処ができるのだと言いたい。
その見えないものを見ようとする力のことを「メタ認知」と呼んでも差し支えないのだ、と書いてこの記事を終わろう。
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