見えざる何かにコントロールされている。
現実世界の私は、
たまにスピってるという言葉を使う。
たとえばだけど、ある海運業の会社に対して何か事業の提案をしたいと思ったとする。
自分の周りで海運業をやっている人間なんて皆無だからどうやってそこに辿り着けばいいのかわからない。
電話をかけたりメールをしたり、飛び込んだりして無理やりに繋がりを作ることも手ではあるんだけど、そんな勇気もない。
そんな日々を過ごしていると、ある日ポッと湧いたように海運業を営んでいる方に知り合う幸運に恵まれることがある。
自分からは何も言っていないのに。
…
生命保険の営業をやっているときにも
似たようなことがあった。
誰か人脈の広い人はいないかな、誰か私の話を聞いてくれるような心優しい人はいないかな、と思いながら札幌の街中を歩いていると、
「ダーキ、久しぶり!」
と声をかけられたことがあった。
誰かと思って見れば、高校の同級生ではないか。
およそ10年は会っていないような友人である。聞けば彼は銀行で働いていて、ちょうど結婚を考えているらしい。
当時の私が生命保険の営業マンであることを話すと「それはちょうどよかった! 話を聞きたいな!」と言ってくれる。
たまたまポッと湧いてきたように、
偶然が手を差し伸べてくれた形だ。
…
そういえば、大学時代、自分のこれからの将来に対して漠然とした不安を抱えていたときもそうだった。
父からは「公務員か銀行員になれ」と言われてきた私だったが、どうも釈然としない。なんだか違うなという気がするんだけど、でも何をやったらいいか分からない。
そんなときに地下鉄の駅構内を歩いていると、こんなポスターを見つけた。
美しい女優さんと一緒に、
このキャッチコピーが並んだポスター。
なんだろう? と思って足を止めてじっくり見てみるとそこに書かれていたのは
の文字。
「コピーライター?」と思って家に帰り調べた。
言葉を生業とする日本の広告人の登竜門とある。
ほう。
これじゃん。
アルバイトで貯めた16万円をすぐに支払って通い始めた。思えば広告と私の接点はここからだった気がする。
…
すべては偶然なのだろうか。
分からない。
私が過去に書いた文章で「クランボルツ教授の計画的偶発性理論」について言及したことがある。
【関連】計画的偶発性理論について触れる記事
解釈が違うかもしれないが、全ては偶然によって形成される。キャリアも人間関係も恋人も。
たまたま同じ地域で育った子どもたちが、同じ学校に集まり授業を受ける。そこでコミュニティが形成され、やがてそこはふるさとになる。
キャリアも同様である。
たまたま就職活動で引っかかった企業や自治体で働き始め、そこで出会った人たちと一緒に人間関係を形成していく。
すべては、たまたま。
すべては偶然。
すべては偶発的事象。
ならばこの偶発性を計画的に作ればいい。
それをどうやるかというと……
行動を続けよ(以上)。
思うに、全ては偶然なのだが、それは日々の自分の行いや、自分の意識に左右されるように思える。つまり「この偶然は自分の手柄だ!」と思いたくなるのが人間。
が、私の場合、20歳くらいのころから、これは全て見えざる何かに操作されている、と思うことにした。アダム・スミスでいう「神の見えざる手」に近い。
私の場合、特定の神や宗教を信仰しているわけでもない、ただの一般的な日本人だから「おぉ、神よ」とは思わないんだけど、代わりにこれを「スピってる」と表現することにしている。
決して自分の手柄ではなく、見えない何かに動かされていると思うことにする。
それを「スピってる」と表現する。
由来はもちろん、スピリチュアルという単語だ。
待ち望んでいた偶然が自分の足元に舞い降りた場合、いつも妻に連絡をする。
すると妻は、
と言ってくれる。
そして妻がいつも言うのは、
おそらく、このスピってる感覚って、
私だけではないはずだ。
すべてがスピってる気がする。
スピってる状態を常に我が物に、というほど傲慢でもないし、目に見えない神秘的な物の存在も感じない。だからおおっぴらに言うこともない。
が、スピってるという言葉を使うと、この成果は自分で作った物ではなく、なにか別の要因でそうなっただけ、と思えるので、己の傲慢さが中和される気がする。
…
が、ここまで書いて思った。
なんか、ちょっと怖いな。
【私の関連記事一覧】偶然といえばコレ