
白い夢(白)
透き通るような白い肩を、金に近い栗色の髪が滑り落ちてくる。
フェイシアはゆっくりと両腕を上げ、頭の後ろで指を組んだ。
スカイブルーの背景紙に、ささやかな細い影。黒のベアワンピースをまとった背中が、健吾と僕のカメラの前に凛と立つ。
ライトを浴びて輝く腕は、まるで真珠のように艶やかだ。
「すげえ……」
健吾が、ため息混じりに小さく呟いた。
肩甲骨まで伸びた髪、ぐっとくびれたウエスト、弾むようなヒップ。スカートの丈は申し訳ないほど短い。そこから伸びた脚は細く引き締まり、僕はつい、舌を這わせる自分を想像しそうになる。
彼女は、僕達には分不相応なほど、白く美しいモデルだった。
「やっぱりさあ、ポートフォリオを充実させなきゃだよ」
マクドナルドの隅のテーブルで、健吾がそう話し出したのは、半月ほど前のことだ。街の中に、クリスマス飾りが目立ち始めた頃。
「ポートフォリオ、か」
「哲也や俺みたいな駆け出しカメラマン、山ほどいるんだからさ。せめて、ポートフォリオくらいしっかり作らないと、仕事取れねえだろ」
確かに、健吾の言うことは一理ある。
カメラマンや画家のようなクリエイターにとって、ポートフォリオとは、自作を集めた作品一覧のようなものだ。自分の技量をアピールするとき、僕達はこれをクライアントに提出する。会社員にとっての職務経歴書と言えるだろうか。
「だから俺、レンタルスタジオとモデル使って、本気の写真を撮ろうと思うんだけど……哲也、一緒にやろうよ」
「え?」
「おまえも、一緒に撮っていいからさ。なあ、だから、スタジオとモデル代、割り勘にしない?」
新宿のスタジオを予約した僕達は、クラウドソーシングサイトを使って、女性モデルを募集した。
応募してきたのは三名。その中の一人がフェイシアだった。
「Faithia」というのはモデルネームであり、本名は知らない。彼女を選んだのは、プロフィールの写真がいちばん可愛い、という理由だった。
けれど、撮影当日に会ったフェイシアは、写真の何倍も美しかった。
「よろしくお願いします」
淡いブラウンの大きな瞳、落ち着きのあるアルトの声。日本人らしい顔立ちと、異国を思わせる白い肌のミスマッチが、不思議な魅力を醸し出している。
「よ、よろしくお願いします。俺はken-go、こいつは須賀哲也といいます」
健吾が名乗り、僕達は彼女に名刺を渡した。カメラマンネームを名乗っている健吾も、名刺には本名を記載してある。
「ごめんなさい、私は名刺がなくて」
「かまいませんよ。えっと、さっそく始めましょうか」
僕が横から口を出し、彼女は紺のコートを脱いでスタジオに入った。
この日、フェイシアに用意してもらった服装は二種類だった。
まずは、赤いTシャツにインディゴブルーのスキニージーンズ。彼女はコートの下に、Tシャツとジーンズを着て来たので、すぐに撮影を始めることができた。
カメラを構えて彼女を見ると、上玉のモデルを引き当てたのだということに、改めて気付かされる。
細く長い手足に、小さな顔。八頭身どころじゃないスタイルの良さだ。
笑顔を浮かべると、無邪気な輝きがぱっと弾ける。それなのに、物憂げな表情には、守らなければと感じるほどの儚さが漂うのだ。
僕達は、夢中でその姿を切り取っていった。
「あの子、すげえよ」
健吾がため息交じりに呟いたのは、フェイシアが着替えのために、別室へ移動した時のことだ。
「なあ、専属契約とか、結ばせてくれんのかな」
「それは無理だろ。専属なんて、健吾と俺のギャラを合わせても足りないよ」
「だよな。何であんな子が、フリーのモデルやって……」
健吾の言葉は、戻って来た彼女の姿にかき消された。
「お待たせしました」
タイトな黒のワンピースに身を包んだ彼女は、思わず息を飲むほど、妖艶な雰囲気を醸し出していた。
体に貼りついた黒い布地が強調する、完璧な曲線美を描いたボディライン。小振りだけれど張りのある胸に、思わず手を伸ばしてしまいそうだ。
ベアトップのワンピースなので、輝くような白い両肩とデコルテ、すらりと長い腕が、惜しげもなく露になっている。
ヌードを撮らせてくれと言いたくなるほど、その姿は芸術的だった。
「じゃあ、後ろ姿からお願いします」
僕がそう言ったのは、彼女に興奮を悟られたくなかったからだ。こんなモデルが来るのなら、股間が目立たない服を選べばよかった。
隣でカメラを構える健吾も、すげえと小声でつぶやきながら、夢中で写真を撮っている。
頃合いをはかったフェイシアが、首を回し、流し目で僕達を見た。途端に、射るような色気が放たれる。
呼吸が浅くなるのを感じながら、僕は必死に撮影を続けた。
「今度は、前を向いてください」
健吾が声をかけると、彼女は軽やかにターンをして、こちらを振り返る。
そして、いたずらっぽく笑うのだ。
その笑顔はあまりにも可愛らしく、おまけに、罪なほどエロティックだった。
撮影は、あっという間に終わってしまった。
「……すごかったな」
スタジオの外でフェイシアを待ちながら、健吾が感慨深げに言う。
「すごい子が来たよな。哲也も俺も、よく冷静でいられたと思うよ」
その言葉に頷くのと同時に、着替えを終えた彼女が出てきた。来た時と同じ、紺のコートとジーンズ。
「今日は、ありがとうございました」
落ち着いた声、清楚な笑顔。先程の妖艶さは、跡形もなく影を潜めている。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「ぜひ、またよろしくお願いします」
僕達が頭を下げると、彼女は微笑んで踵を返し、歩き始めた。
「俺、後つけてみる」
その直後、健吾が動き出した。
「やめろよ、趣味悪いな」
「襲ったりしないから大丈夫だよ。また、モデル頼めるか訊くだけだから」
止めようとした僕を振り払い、健吾は足早に歩き始めた。
何故だろう、とても嫌な予感がする。
「健吾」
声をかけてみても、彼は止まらない。広い背中は、フェイシアを追って角を曲がり、僕の視界から消えた。
……僕が健吾を見たのは、それが最後だった。
三日経っても、健吾の行方は杳として知れなかった。
何度、ラインを送っても既読が付かないし、メールを送っても返事はなし、電話をかけてもつながらない。
心配になった僕は、健吾のアパートまで、様子を見に行ったのだが、ドアの鍵は掛かったままで、人のいる気配はなく、僕はとぼとぼと引き返した。
健吾とは、昔からの親友というわけではなかったが、写真の専門学校で知り合った同期の中では、一番気が合った。
一流のカメラマンを目指して、お互いに励まし合っていた。
「一体、どこへ行ってしまったんだろう」
公園のベンチに座り、僕は呟いた。
お腹も空いてきた。
贅沢のできるような収入はないから、気軽に外食もできない。
せいぜいがマックか牛丼屋だ。
あの時、フェイシアを追いかけて行く彼を、もっと強く引き留めていたら・・・。
そう思うと、後悔が押し寄せてきて、押し潰されそうになる。
情けないが、涙がこぼれ落ちてきそうになった。
その時。
ベンチに座る僕の前に、誰かが立ち止まった。
ふっと顔を上げると、
「フェイシア!」
そこにフェイシアが立っていた。
あの日と同じ、抜群のスタイルに、栗色の長い髪、抜けるように白い肌。
淡いブラウンの大きな瞳が僕を見つめている。
「須賀さん」
フェイシアは言った。
「一緒に来ていただけませんか」
僕はふらふらと立ち上がった。
「どうして、ここに」
「ken-goさんのアパートに寄ってきたところなんです」
歩き出しながら、フェイシアが言った。
どうしてフェイシアが健吾のアパートを知っているんだろう、まさか二人は付き合っているんじゃ・・・。
「ken-goさんから鍵を預かって、コートを取ってきただけですよ。今、ken-goさんは、私の実家にいるんです」
頭をもたげかけた、僕の嫉妬心は、あまりに思いがけないフェイシアの言葉に、へなへなと萎れてしまった。
「きみの実家?」
「はい。ちょっと色々ありまして。驚かないでくださいね」
前を歩いていたフェイシアが、公園の外に停めてあった車に乗れ、と言う。
僕はすなおに従った。
「お嬢さん、出していいですか」
「お願いするわ」
あとから乗って来たフェイシアが、運転席に座る、丸坊主の男に言う。
どう見ても、ふつうの車ではなかった。
言ってみれば、防弾仕様の黒塗り車、別の言い方をすれば、めちゃくちゃ高そうな、超高級車だ。
こんな車に乗るのは、やっぱり・・・。
「変な車だと思ってるんでしょう」
「え、いや、何て言うか」
「いいのよ、実際変なんだから」
口調が砕けてきている。
ふと見ると、フェイシアは口をとがらせていて、まるであどけない女の子のようだった。
予想していた通り、着いたところは、だだっ広いお屋敷だった。
想像と違っていたのは、玄関の前に、ずらりと並んだ組員さんたちなどはいなくて、お手伝いさん風の、品の良い中年女性が出迎えてくれたこと。
「お嬢さま、お帰りなさいませ」
「ただいま。ken-go先生のお具合はどう?」
「だいぶよろしいようでございますよ。さっきもお食事をたんと召し上がりまして」
お手伝いさんがほほほと笑う。
「あら、そちら様がもうお一人の先生でいらっしゃいますか」
「そうよ。カメラマンの須賀先生」
「いらっしゃいませ」
お手伝いさんがお辞儀をする。
僕もあわててお辞儀を返した。
「あの、フェイシアさん」
フェイシアは僕を目で黙らせると、廊下を進んだ先にある部屋まで連れて行った。
襖を開けると、そこにいたのは、健吾だった。
「健吾!」
「哲也じゃないか」
「偶然、ken-goさんのアパートのそばの公園でお会いしたんです」
「心配したんだぞ、おまえ、携帯にも出ないし、メールもラインも音沙汰なしで」
「ごめん、ごめん、ちょっとした誤解があってさ」
「誤解?」
あぐらをかいて、くつろいだ様子で部屋の中にいた健吾とフェイシアから、僕はこうなった経緯をすっかり聞き出した。
まず、ここは、フェイシアの言葉通り、彼女の実家であること。
彼女の実家は、平たく言えば、ヤクザの傍流の小さな組であること。
母親は彼女が小さいころに亡くなっており、父親である、ヤクザの組長は、いささか過保護気味であること。
彼女は、成人したからには、一刻もはやく実家を出て、自活したいと思っており、そのためにも、モデルとして大成したいと思っていること。
だが、いざ大手のモデル事務所と契約を結ぼうとすると、実家がヤクザだということが相手に知られてしまい、結局、フリーで活動しているということ。
あの日、フェイシアは、新宿の撮影スタジオから少し離れたところに停めてあった車に乗って、実家に帰ろうとしていた。
仕事で出掛ける時は、運転手付きの車を使うようにと、父親が彼女に厳命しているそうだ。
運転手は、言わばボディーガードなのだろう。
「父ったら、私が騙されて、ヌード写真のモデルにでもされると思っているんです。ヌード写真なんて、私にオファーが来るわけないのに。ああいうのは、もっと胸の大きい子じゃないとだめでしょ。私なんて、ぺったんこなんだから」
いやいや、ぺったんこなんてことはありませんよ、と言いそうになり、僕は危うく踏みとどまった。
もし、この先、フェイシアにモデルをしてもらえるとしても、もうヌード写真は頼めない。
僕だって、命は惜しい。
彼女の親爺さんから、愛娘のヌード写真を撮ったと言って、ハチの巣にされるのは、ゴメンだ。
あの日、彼女の後を付けていった健吾は、彼女が車に乗ろうとしているところで、運転手に見つかった。
運転手は、フェイシアに声をかけようとした健吾を、お嬢さんの後を付けてきた変質者かストーカーだと誤解し、一喝した。
健吾はその大声に驚いて、その拍子に足を滑らせ、近くにあった電柱に頭をぶつけ、一時的に意識を失ってしまったのだ。
それが健吾だと知り、困った二人は、後部座席に健吾をそっと乗せ、フェイシアの実家まで連れて行った。
「うちがヤクザだと知れると、警察から色々と誤解されるでしょう。わざと怪我させたと思われるかも知れないし。父から、もう、モデルの仕事をするなと言われるのも怖かったし、ついお連れしてしまったんです。ごめんなさい!」
すぐにかかりつけの医師に往診してもらったそうで、健吾が落ち着いてからは、病院で頭部MRI検査もしてくれたそうだ。
結果、何ともなかった、と健吾は笑っていた。
「お医者さんも、もう大丈夫ということだったから、今日、帰ろうと思って、彼女に替えのコートを取りに行ってもらったんだ」
電柱に頭をぶつけて倒れた際、着ていたコートに鉤裂きができてしまったという。
携帯電話は、健吾が充電するのを忘れていて、つながらなかっただけだった。
僕は、拍子抜けするやらほっとするやらで、いささか放心状態に陥ってしまった。
あまりにめまぐるしい一日だったのだ。
父親の手前、フェイシアは、健吾のことを、若いが有名なカメラマンで、
フェイシアの新しいコンポジットカード用の写真を撮ってもらうことになっていると説明したらしい。
撮影中に、健吾がちょっとした事故にあってしまい、一人暮らしで、誰も世話をする人がいないから、家に来てもらうことにした、と。
その説明で、父親もお手伝いさんも、特に変には思わなかったということだ。
その辺は、大勢の人間が、常に出入りしている家ならではの感覚なのだろう。
その晩は、僕も一緒に、フェイシアと健吾の三人で、お手伝いさんの手料理をいただいた。
二人で帰る時、健吾のアパートまで、車で送ろうかと言われたが、二人揃って、丁重にご辞退した。
電車に乗って帰る途中、健吾と二人、しみじみと顔を見合わせて、
「世の中って、不思議なことが起こるものだな」
と言い合った。
僕の頭の中に浮かんだのは、あの、口をとがらせた、幼い女の子のような、フェイシアの表情。
空に浮かぶ白い月を見て、フェイシアの白い肌を思い出した。
「また、会えるかな」
健吾に聞こえないよう、そっと呟いた。
(了)
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