「苦労」なんて買ってまでしなくてもいい
私が子どものころは、苦労は買ってでもしろ、とよく言われていて、自分でもなんとなくそうなのだろう、と思っていた。
でも年月が経っていろんな経験をしてみると、苦労なんて買ってまでする必要はないことがわかってくる。
苦労をしていない人が「お金を払ってでも「苦労」をしようとする」のは、やはり何かが違う。
もちろん、「苦労」をすることがその人の経験になり、そこから何かを学び成長することも結果としてはあるだろう。でもだからといって、「苦労」を自ら求めてそこに突き進んでいく必要はない。
「苦労」は、何かをしている過程でその人自身が感じるもので、目的でも目標でもゴールでもない。周りの人が「あの人は苦労している」と思っても、その人自身が「苦労」など感じなければそれは「苦労」ではない。
人が自分の夢やゴールに向かって進んでいるときには、いろんな困難もあるだろう。周りの人はそこに「苦労」を見るのかもしれない。でも、その人が何も感じなければ、そこには「苦労」はないのだ。ないけれど、その人はそこから何かを学び成長することもできるし、夢やゴールに到達することもできる。
そもそも夢やゴールに向かって進んでいるときは、楽しいだろう。困難な状況であっても、うまくいかなくても、何らかの楽しさを感じているだろう。
でも「苦労」は楽しくない。楽しかったら「苦労」とは感じない。
苦労は買ってでもしろ、というのは、「苦労」という状況をどこかで見つけて、それに自ら入り込み、その状況をその人が「苦労」と認識し、だからこそそこに価値や意味を見出すという行為のことで、それに時間やお金やエネルギーを使うということだ。
そもそも「苦労」のとらえ方が違う。目的でも目標でもゴールでもない、言い換えると、対象でもない「苦労」を探して、それに対価を払ってそこに入り込むことは実際にはできないのだ。
だから、苦労は買ってでもしろ、というのは、夢や希望やゴールに向かう人には実は適さない言葉なのだと思う。