頑爺と無字の碑
地元出身の東京芸大の創設者、伊沢修二が
初期の台湾教育に関わっていたことを知り、
先日図書館に関連資料を探しに行ったのだが
目当ての資料は残念ながら貸し出し中。
代わりに読んだのが「伊沢多喜男」。
その知友後進の方々によって編纂が決まり
親友だった幣原喜重郎を委員長に
三周忌前に完成したという伝記だ。
伊沢多喜男は、伊沢修二の弟で、
明治・大正・昭和と生きた政治家。
和歌山・愛媛・新潟などの知事を務め
警視総監、貴族院議員、さらには
ほんの三ヶ月程度だが東京市長を勤めたこともあり、
その存在感が偲ばれる。
また、修二同様、台湾総督として赴任している。
この期間、前総督時代から懸案だった教育問題のうち
もっとも大きな課題だった台北大学を創設した。
幣原氏がその初代総長となった。
台湾の近代民主化に日本の教育が大きな力になったのだが
そうした中に地元出身の伊沢兄弟がいたことに今頃気づいた。
多喜男はインドのガンジーに私淑してその平和主義を愛し、
「頑爺」という雅号も使っている。
ー僕は議論は嫌ひだ。つまらん。生臭坊主の辻説法といって、そんなことは、人を強く打たんですよ。要するに人間なんだからー特に若い者は感受性が強いから、実践するものには打たれるんですよ。
その意味では、やっぱり、二宮尊徳は偉いと思ふね。また現代では、インドのガンジーは偉いと思ふ。
彼は否暴力、不服従と言っている。暴力を否認し、真理は暴力を持って厭へつけることはできない、真理は不滅だといふことを強く主張するんだ。イギリス政府によって、幾度も牢獄へ投ぜられたが、入れられるとすぐ断食する。結局、イギリス政府が負けて、釈放する。出るとすぐ独立運動をやる。
なぜイギリスが負けるかといへば、1人の彼を殺すことによって、何十万のガンジーが出ることを恐れるからだ。真理は不滅だから、己れ1人が死んでも、
真理は永遠にあるといふことを信じているからだー
兄・修二は禅門にも深く帰依して今北洪川和尚に師事したが
多喜男もまたその影響を受け、渡辺南隠老師、天地古鑑老師に私淑し
禅林の教えに努めて接していたという。
晩年は、「児童や青年に治山愛林の思想と勤労精神を育みたいと」
郷土高遠に学校林事業費を寄付し、
さらに故郷の七か町村に約50町歩の学校林を植林、
中学校、女学校、農学校に約30町歩の学校林を植林した。
在命中に、郷土高遠の人たちが記念碑を建てたいと懇願するも
多喜男は頑として承諾せず、結局承諾を得ないで「無字の碑」が建てられた。
その「無字之碑」は高遠公園内にあるのだが、
生涯の一貫した至誠「無私」の精神が伝わってくる逸話だ。
しかしながら、多喜男は戦後のGHQの政策によって公職追放となった。
この時代こうした人は日本全国にいたのだと思うが
その存在があまり知られていないのはこの公職追放と
のちの教育にあると思う。
またこの時代の多くの指導者が「禅」を学び、
多大な影響を与えた多くの名僧の存在があったということも
この本を通じてよくわかった。
かの白洲次郎と重なる時代を生きていながら
次郎はGHQと折衝した立場にあった訳で
同じ日本でありながら生きている場所が全く異なるものだと思った。
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