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「内臓とこころ」と神道と

こんにちは、橘吉次たちばなきちじです。
今noteでは「#読書の秋2022」というイベントを実施していて、
その中に「今こそ読んでほしい、この本」が33冊掲載されている。

「へぇー、素敵な企画だなぁ」と思ってみていたら、
三木成夫先生の「内臓とこころ」が推薦されていた。

おおっ!
おおおおおっ!
ジーン…ときた。

「先生!わたし神主になったよ」と、お会いしたこともない三木先生に語りかけたくなる。
この本との出会い。
この本に対する感謝を書き残すことにしたよ。


「恐ろし気な顔」こんな表紙の本は買わない


しかし!
この本といつ出会ったのか?
憶えていない。
多分、養老孟司先生にハマりまくっていた時だろう。

人が本を選ぶ理由は色々あるが、
吉次の場合は「芋ずる方式」が最も多い。
著者が、その著書の中で論説を紹介していたり、文章を引用していたりする本を次々と選んでいく。

だから、どの本か覚えていないが、養老先生著作本から、この「内臓とこころ」にたどり着いたのだろう。
少なくとも、本屋で表紙を見て、気に入って購入したのではないはずだ。

だって…
表紙を飾る、この恐ろしげな顔。
こんな不気味な顔がドアップになっている本など、絶対買わない。
怪物
バケモノ
何かの「顔」だとはわかるけど、この世のものではない顔だ。

そうなのだ。
この顔は「この世とあの世の境界」に存在する胎児の顔。
受胎38日後。
母の子宮の中で、
生命が爬虫類から哺乳類へと進化する過程を体験していた、かつての私たちの顔なのだ。

その顔は
虚空を見つめる覚者のように威厳に満ち、
時空を超越する神の静けさをまとっている。

これは、私だ。
かつて生死の境界にいた時の私なのだよ。


広大な森を彷徨う近代精神


「生と死」
この人類最大の難題に興味を持たない人間はいない。

あらゆる哲学者
あらゆる宗教者
すべての科学者、生物学者、文学者が、一生をかけて問い続ける課題は、突き詰めれば「生と死」だ。

時に論理的に
時に情緒的に
時に科学的に
様々なアプローチで人類は「生命の生死」を追求してきた。

吉次4歳の夏
神職だった祖父が亡くなった時に「なにものか」が勢いよく、風のように飛び出してきたのを見た。
(見たのか?感じたのか?わからんけど…)
それが原因なのか?
わたしは「生死」の謎に取りつかれ、あらゆるジャンルから生死を学んだ。
哲学、宗教学、脳科学、心理学、文化人類学…

でもさ、学べば学ぶほど「生死」という壮大なテーマは細分化され、無数に伸びる枝のサキッチョに焦点を当てることになる。
いわゆる、樹を見て森を観ず状態に陥る。

人間ってなんだ?
私とはなんだ?
生きる意味ってなんだ?

次々に現れる大木を目の前にして、立ちすくんでしまう。

えーん!森が観たいんですー!

と、思って歩き出しても、広大な森を彷徨うだけで森を抜けだすことはできない。
進んでいるのか?迷っているのか?
同じところをグルグル回っているようにも思える。

もうちょっと、どうにかならんのですかいな?

はい、どうにかなります。
三木先生の著書をお読みください。
特に「内臓とこころ」は、暗い森を彷徨うあなたに一条の光を与えます。

ああ、そうだったのか。
すでに私が森だったのだと、気づくのですよ。
まさに腑に落ちた。

吉次は、それに気づいて神主になりました。


情理の橋を架ける人


神道の家に生まれ育ち、
神道を愛しながら、同じ分量の憎しみを抱いて私の青春は過ぎた。
だから宗教の道を選ばず、34年間キャリアウーマンを目指して働いた。

でも、私の中でずーっとこだわり続け、問い続けたテーマは「宗教と生死」だった。
宗教ってなんだ?
神とはなんだ?
死とはなんだ?

学んでも学んでも、何も見えてこない深い森の中。
確固たる回答を得ることができず、うろうろと彷徨っていた時に出会った。
それがこの本だ。

そうか!すでに私が神なんだ!
宗教とは、壮大な生命の「つながりの物語」なんだ!
なんだ、そーゆーことだったのか!

三木先生は解剖学者だ。
「内臓とこころ」は生命進化の過程を生物学的に説明した本だ。

しかし!

「いのち」に対する圧倒的な情愛に溢れ、
人間という生物へのゆるぎない肯定がある。
この本は宗教的思想書だ。

いのちとは何か?
人間とは何か?
「僕はそれを、解剖学という角度からお話します」というスタンス。

ああ、こーゆー立ち位置があるのだ。

これは衝撃的だった。
わたしはコレが欲しかった。
哲学書でも脳科学書でも宗教書でも得られなかったのは、
人間という生物に対する情愛と客観的事実とを架橋する論理だ。

つまり、宗教と科学の融合。

この相反する、分離した島をつなぐ橋を養老先生は「情理」と解説で表現している。
西洋キリスト教由来の近代は、世界を分断し、自分と世界を切り離し、客観的思考によって文明を発達させた。
その恩恵は計り知れないけれど、細分化された孤島で生きるのは寂しい。

現代の日本人が感じる「生きづらさ」は、世界(宇宙といってもよい)と自分をつなぐ橋を見つけられない生命の孤独感だろう。

精神と肉体
神と現代社会
生と死
離反し、対立するものを架橋すること。
そして、人間という生物そのものが、架橋する橋となりうること。
この本を貫くテーマだ。

私もそうあればよい。
そうでありたい。

分離していた、神道への愛と憎しみが融合し、
どーにもつながらなかった、科学的思考と信仰心を架橋する手段を見つけ、
吉次は52歳から、また神道を学び始めた。

そして、
三木先生、わたし神主になったよ!


神道の「はらわた」感覚


かつて日本人は自然に神をみた。

太陽、月、山、風、海、水、大地…
宇宙という概念を持たなかった古代人だが、宇宙リズムの自然と共振共鳴しながら生きていたのだ。
宇宙リズムの気配。
これが神だった。

自然との共振で営まれる生と死
魂(タマ)は生死を循環し、先祖は子孫に生まれ変わる。
祖先の記憶は子孫に受け継がれ、繫栄していく。
これが神道の祖霊祭祀の根本思想だ。

まさに生命記憶。
30億年前に発生した、生命記憶を携えて生まれてくる生命は、
食べて、生殖する。

神道祭祀は色々あれど、この2つの祈りが一番大切な祭祀だったのだ。
五穀豊穣と子孫繁栄

今では、
商売繁盛とか、合格祈願とか、人生開運が人々のメインの祈りになって、
神は現世利益を叶える対象物にされているが、これは本来の神道の姿ではない。
人と神が分離された信仰は、ただの形式と教義宗教に落ちる。

神は既に自分の中に存在する。
生きているということは、神と共に在るということなのだ。
いのちは神の分霊だ。
神の気配を感じる、これが「はらわた」感覚。
近代の科学的頭脳では神を感じることはできない。

日本人が太古の昔から継承してきた神道の本髄は、三木先生の主張と全く同じだ。

河出文庫の巻末の養老先生の解説には
「まもなく三木先生の時代がまたやってくる」とある。
細分化することで世界を把握してきた西洋由来の近代。
この近代の次の時代は、古来の神道も見直される時代となるだろう。

本来の神道に生きる。
そんな神主になるよ、先生。見ててね。



最後までお読みいただきありがとうございました!


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