見出し画像

"働く" ということ


深夜4時30分。誰1人いないオフィスで今日も業務が終わり、"働く"ということについて考えてみました。

20代の折り返しにも全く満たない自分には、それなりの拙い哲学があります。

"働く"ということについてはじめて考えたのは中学3年生の夏。

今でも忘れません。

新宿紀伊國屋で何気なく孫正義の自伝「志高く」を手に取りました。


野球・受験・遊び・彼女との交際。

すべてに全力投球し、それ故に未来がぼんやりと霞んでいた中学生の私にとって、そこに描かれていた彼の生き様は、まさに衝撃そのものでした。

私のこれまでのすべてを否定するような、それでいてその後の私のすべてを創るきっかけとなったような。


その日の夜、玄関を開けてすぐ両親に『俺は将来起業家になる!』(今考えればよくも気軽に言ったものだと恨みますが) と、声高らかに宣言した記憶があります。

それ以来、私は、"働く"ということについて、未熟な学生ながら、価値観を少しずつ明確に創り上げてきました。

稚拙な言葉遣いから少しずつマトモに変わる日本語で、数年もの間書き足されてきたその乱雑なメモを右手に、サラッとnoteに書き殴っていたら4,000文字になってしまったので、共有します。

短い時間で書き殴っただけの、大したnoteではありませんが、暇つぶしにどうぞ。



テーマは、

働くとはなにか


です。


『この世に生を得たるは、事を成すにあり』


元々は孫正義が憧れ、追いかけた坂本龍馬という時代の変革者の言葉です。

今日はこの言葉の意味について考えてみたいと思います。


働くとは、事を成すということであり、それは生を得ることの意味そのものであると私は考えています。





働くとはなにか

まず、私にとって"働く"というのは、

生きるということそのもの

です。


"働く"=生きる


社畜の鏡のような発言ですが、今の私の生活は、この方程式そのままと言えるかもしれません。




この結論の土台には、3つの価値観があります。

①生きるとは、「自分」に対して創造的破壊を繰り返すことである

②「自分」とは、「社会」の一部である。

③"働く"ことによってのみ、「社会」を破壊することができる。




「社会」を"壊して創る"には、働かなくてはならない。

その結果として社会に起こした破壊という名の変化は、その一部である自分に対する破壊と変化でもある。

そして生きるとは、自分を破壊し、変化させるということである。


つまり私の価値観はこうです。

働き、社会とその一部である自分に変化を起こしてはじめて、"生きている"と呼べる状態でいられます。

そうでなければ、私自身が成長していようが、キラキラしていようが、ただの"死体" であるということです。



では、創造的破壊とは何を指すのでしょうか。

少しずつ紐解いていきます。


①生きるとは"破壊"という変化である。

生物学の世界で、"生きる"と言う行為は、「動的平衡」
この一言で説明することができます。

"動的平衡"というのは、

変化する(動的である)ということが、変化しない(平衡を保つ)ということである。
という生物学におけるややこしい概念です。

生物学者であり、『動的平衡』の著者である福岡伸一は、このように主張しています。

すべての生物は、エントロピーの法則に抗えず、乱雑さが増していく。この世界はエントロピー増大の法則に勝つことはできません。しかし生物は、自然崩壊に先回りしてみずからを壊し、環境から取り込んだ分子を使って自分をつくり直すことによって、エントロピーを系の外に捨てながら分子の淀みとしての形を保っています。


つまり、生命とは、現に存在する秩序がその秩序自身を維持していく能力と秩序ある現象を新たに生み出す能力である。


生命とは、『秩序』である、と。

たとえば、私たちが寝て起きた時、8割の細胞は死んで入れ替わっています。

もちろん、昨日の自分も今日の自分も、認知の世界では同じ自分です。

でも、私たちの構成要素である細胞の8割が入れ替わっているわけですから、私たちは生物学的には、殆ど死んで生まれ変わっているようなもの。

もはや、別の生物(細胞の集合体)とさえ言えます。

でも、自分は自分だと思う。というか、思える。

むしろ、変わってるから、同じと認識する。少し不思議な感覚ですが、変わりゆく(動的な)環境に対して、我々も動的であることで、相対的に平衡でいることができるということです。


"細胞を壊して、新しく作る"
"死ぬことで、生まれる"


もしもこの作業を怠れば(静的であったら/変化しなかったら)、私たちは死にます。(平衡状態を保てない)

生物というのは、ヒトも例外に余らず、この"壊して創る"、動的平衡によって、生き続けることができます。逆に言えば、死ぬとか絶滅するってのはつまり、外部の変化に対応できなくなるということです。

だから、そもそも"生きてる"かどうかの境目、つまり生物と無生物の境界線はそこにあります。動的平衡を維持できるどうか。

つまり、少なくとも私にとって生き物らしくある、つまり"生きる"と言うのは、動的であることであり、そうでなければ生きているとは言えません。



そういった意味では、会社とは、生き物なのかもしれません。

野球チームも同じです。

大阪桐蔭は、いつまでも大阪桐蔭であり続けています。

毎年メンバーは変わるのに、です。

国家である『日本』の衰退も、その構成単位が動的平衡を維持できていないからと言えるかもしれません。

それはまさに、生き物の動的平衡のように。


「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」

鴨長明「方丈記」


水の流れは変わらないように見えても、水そのものは常に入れ替わり続けている。

「諸行無常」の概念です。


なんにせよ、我々は、生き続けるには、
動き、壊され、常に死ななくてはならない。




②「自分」とは「社会」である。

我々は「生物」であると同時に、社会性動物です。

そして、我々が生きるこの世界は、すべからく相対的でもあります。


相手が相手だから、「自分」は「自分」である。

相手がいるから、「自分」がいる。


「自分」も、相対概念なわけです。


そして社会とは、そんな「相手」の集合体です。


我々は、言語という社会の共通認知道具によって境界線を生み出し、その境界線が我々のアイデンティティ、つまり「自分」をつくりだしています。

ウィトゲンシュタインの言い方を真似るなら、自分が存在するから「自分」が「自分」なのではなく、「社会」つまり、言語を用いて「自分」を「自分」と定義できるから、自分は存在する。


つまり、「自分」とは、「社会」ありきの概念であるわけです。


もっといえば、私の価値や、私と言う存在も、「社会」に対してしか定義することができません。


したがって、社会性動物としての私が私に起こした変化と創造的破壊は、社会に対して起こした変化と創造的破壊によってのみ定義されます。

これが、単なる生き物としてのヒトと、人間の違いなのかもしれません。

動的平衡の世界観では、細胞が移り変われば、それは生物として生きていることになります。

しかし、社会性動物らしく、人間らしくある。

つまり、"人間らしく生きる" というのは、自分だけでなく社会に破壊という変化をもたらすということです。

この影響が無ければ、我々は社会という組織においては、ただの"死んだ細胞“同然といえるでしょう。


我々は、我々自身が動的平衡を保つ組織であると同時に、社会という組織を構成する細胞としての役割を果たす必要があるという事です。

それがなくては、"人間として生きている"とは言えない。




③我々は"働く"ことで、「社会」を破壊することができる。


クーラーの効いた安全な部屋でいくら文句を垂れても、この世界に存在する無数の、時代遅れな不合理が消滅することはありません。

100年経てば社会の細胞である古き人間は淘汰されますし、それは自然の摂理の中で最もよくできた仕組みだと思います。


しかし、それでも「社会」が健全に「生きる」には、遅い


でも、"働いて"、何かを創れば、いらなくなった何かを壊すことができます。


それは、働かなくては成し得ないことです。


逆に言えば、それができなければ、一般に働くと呼ばれていることも、私にとっては"働く"ではありません。


つまり、

"働く" というのは、我々が属する組織体としての「社会」を生きた生命体たらしめる唯一の手段であるということになります。


働くことで、社会を壊し、生きていくことができる


まとめると、

私たちは、"働く"ことで、自分たちが構成している「社会」を壊すことができます。

壊すことで、「社会」は生きることができるわけです。

そしてその移ろいゆく動的に平衡な「社会」に起こした破壊と創造による変化の価値は、移ろいゆく「自分自身」が起こした変化の価値でもあります。

つまり"働く"とは、自然の原理で淘汰されるその日まで、社会を、自分を、絶えず変化させ続けること。

そこに意義はありません。

でも少なくとも私にとって"働く"というのは、そのように「生きる」ということです。



一つ追記があるとすれば、私たちはその過程の中で、何かしらの意味合いをつけることができますし、つけてしまうものです。


だから正確には、私にとって働くとは

社会に創造的破壊を繰り返すことで、"事を成す"

つまり、生きるということ。

あるいは、生きる意味をつくるということです。












未来の自分を創るということ。

これまでと同じ、あるいはそれ以上に魅力のある自分であるということ。

それは、私が私でいられるために必要不可欠なこの世界を変化させることです。


そのために、昨日までの自分を壊し続ける事。

新たな自分を創造し続けること。

あるいは、昨日までの社会を壊すこと。

新しい未来を創ること。

その動作を私は「生きる」と呼び、「働く」と呼びます。



そういった意味で、私にとってこの破壊的創造としての 「働く」は、何にも変えがたいものであるのだと思います。


『この世に生を得たるは、事を成すにあり』



最後に


「働く」成果としての「仕事」について


「仕事」とはなんでしょうか。



我々は高校物理でこんな方程式を習いました。


仕事=力×距離 (W=F•S)


誰もが知っている公式です。


我々の「働く」成果としての「仕事」も、きっと同じなのだと思います。


仕事とは、世の中に対して起こした変化のキョリと、巻き込んだ力の大きさである。

と。


人の価値観はこのように、全て大なり小なり無数のアナロジーで出来上がっています。

たとえば、組織と細胞を、会社と社員に見立てたり、社会と個人に見立てたり。

漫画ONE PIECEにおける海賊の組織主義を、会社経営のマネジメントと重ねたり。

そして、アナロジーの一番土台の部分には、いつも哲学があります。

せっかくなので、その参考となるオススメ書籍をいくつか下に載せておきました。

興味のある人は是非。

そういえば、生物と無生物のあいだを読んだきっかけは、小学生の頃に出会った麻布(武蔵だったかな?)の過去問「ドラえもんが生物でない理由を答えよ」という問題に出会ったときでした。

父にその問題を渡しとき、これを読めと渡されたその何気ない一冊が、「生物と無生物のあいだ」です。

「曖昧なものを切って分ける」という哲学の根底を私に突きつける大きなきっかけとなりました。

福岡伸一先生の最高の一冊。

是非手に取ってみてください。


・『動的平衡』
"生きる" ということについて

・『生物と無生物のあいだ』
生物とそれ以外の、曖昧な境界線について、生物学考える

・『論理哲学論考』 
存在という曖昧さを、言語から考える

・『死の壁』 養老孟司
生と死の曖昧な境界線について、解剖学から考える


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?