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わたしを抱きしめて眠る。
おはよう、こんにちは、こんばんは。
おやすみ前の方も。
あるがまま、輝き生きたいひとのためのライフコーチ、otokiです。
悲しい、哀しいニュースをみました。
かなしい、という言葉だけでは言い表せません。
少しニュースに触れただけなのに、わたしの魂が共鳴して、奥のほうで人知れず静かに、かなしい、かなしい、つらい、苦しいと泣くのです。
あなたに生きてほしかった。
ただ、ただそう思いました。
ゆるすことなら、今生のあなたと話してみたかった。笑い合ってみたかった。出逢ってみたかった。
今生の肉体を痛めつけてまで、あちらにいかないともうどうにかなってしまいそうだったんだろうなと、勝手に思っています。
だけど、やっぱり、わたしは、あなたと出逢いたかった。
私は、(身体、肉体)というものは、今生での仮のウツワだと思っています。
仏教や禅の考え方を探究しだからそう思うのです。
こちらの本でこんな言葉が綴られています。
修行僧「人生に早く決着を付けて、死ぬことが大事だと思いました。死について、教えてください!」
禅師「バカモン。人生には、生と死という区切りはないのだ。ただ在る、ということが人に続く。その区切りを付けたいと思う心は、ただの自分の逃げたい根性に過ぎない。私の寺には生死という問題は無い。この軟弱者め、帰れ!か〜〜つ!」
そう言って、禅師はその若い修行僧を棒を持って追い返したそうです。
私たちには、人生に死という「区切り」を付けることで、楽になれると思い込んでいないでしょうか?
死によって、今生の決着が付いて、軽やかな心境になれると思い込んでいないでしょうか?
禅師はこれを完全に否定します。
そもそもの真相は、死というイベント(催し物・現象)によって、
・生と死という区切りも、心境が変わる区別も、心には起こらない。
・今の自分の思いのままが、人には続く。
・心が今よりも楽になれるとか、心機一転の気持ちになるということは起こらない。
このような示唆をして、若い僧を諭しました。
ああ、10年死にたがりをやっていた当時の私に教えてあげたい考え方だと思いました。
この本と10歳のときに出逢いたかった(当時は理解できないかもしれないけれど)
死にたがりの私は、死によってハッピーな楽園が手に入るんだと信じていました。
だから、死の切り札をもって爆速で行動できたり、無鉄砲な発言で周りを傷つけたりしていた。
でも、そうではないと、今は思います。
死は、イベントでしかない、今生の仮の肉体の終わりを告げるイベント。
肉体にはタイムリミットがあります。
だから、今生を大切に生ききる糧になる。
でも、心、魂にはタイムリミットはない。
肉体が無くなっても、魂はそのまま残り、今生を見守ることができる。
それなら、今生でこころを、魂を磨くことに時間を使ったらいいと思いませんか。
仮のウツワや、人間の特性によって作られたシステム、環境はいくらだって変えられます。
でも、あなたの魂は、わたしの魂は変えられない。
来世も、いつまでも続いていくもの。
だからこそ、自分のほんとうにやりたいことをあるがままにやりきって、(嗚呼、私、今生で輝き生きたなあ)とつぶやいて、死というイベントを迎えたいと思うのです。
たくさんのひとが、あるがまま、輝き生きる世界を創りたい、またここに立ち戻ります。
そのために、わたしはできることからはじめます。
かなしいニュースが、少しでも減りますように。
今生を生きる大切なあなたが、今日もしあわせに生きられますように心から祈っています。
otoki
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