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「怒り」の根本は「悲しみ」

こんにちは。ひすとりです。
今日は、最近困っているご近所トラブルへのもやもや。
そこから考えた「感情」のお話。

この記事を書いている人:
元中学校・高校の教師。教育改革や職場改革に奔走するも、心身不調により休職→転勤→退職(イマココ)。自分の経験や考え、働き方や生き方に関する情報を発信しています。

自宅前の空き地でボール遊びするこどもたちが…

わたしの自宅の前には軽くキャッチボールするには充分な空き地があります。自宅の庭ということではなく、住宅街をつらぬく公道にくっついた広めの土地といったらいいのでしょうか。

たまたま自宅の前が他の住宅の前よりも広く、人通りは多くないことから近所の子どもたちがたくさん遊びにきます。
小学生低学年のやんちゃな男の子たちが平均5〜6人くらいで、平日の夕方と土日の日中にやってくるのです。

わたしが今の住まいに引っ越してきて初めの頃は、

少子化の時代に子どもがたくさんいて、楽しそうにしていて平和だなぁ〜♪

なんて思ってあまり気にしていませんでした。

ところが最近、その近所の子どもたちが成長してきてパワーが有り余ってくると、そのパワーに困らされることになってきました…。

結論から言うと、ボールを自宅のフェンスや家の壁にぶつけられるようになったのです。

自宅内から覗いてみるに、もちろんわざとぶつけてくるわけではありません。子ども同士でボールを蹴り合っていたら当たりどころが悪かったりして飛んできてしまうだけです。

悪意がない様子にホッとしつつも、モヤモヤした気持ちは消えません。

何にモヤモヤしたのか。


▶︎私有しているものに何度もぶつけられること

それは我が家の私物にボールが何度もぶつかることです。
壁やフェンスはすぐに傷ついたりすることはないと思うので、そんなに気にならないのですが、問題は当たった時の音です。

家の中にいるとボールが当たるその音が反響して、おそらく外で響く音以上に大きく聴こえているのだと思います。

毎回その音にとてもびっくりしてしまうのです。
(HSPの気質も大きく関係していると思います…)

つまり、子どもたちの悪意はないけどやってしまったことにより、自分が不快な状況になることがもやもやしてしまうわけですね。


▶︎当たったことについての言及・フォローがない

さらに自分のもやもやが加速してしまうのは、何度も当たったこと、もしくはボールが我が家に入ってくることに対しての言及が一切ないことです。

子どもが気まずくていえない、もしくはそのことすら気づいていないのは分かる。しかし、親御さんが遊んでいる側で談笑してる様子を見たときは驚いてしまいました。

そもそもそういう行為をすることに問題意識がない方なのかな、と。


そう考えるとなんだか「困ってます」と伝えるのも、疲れちゃうなぁなんて思ってしまいました。

▶︎こういう場合、されたことよりもその後のフォローがないと悲しいかも

ここまでことの顛末とその時の気持ちを「もやもや」と表現してきましたが、されたときは正直もやを通り越して「怒り」が多いです。

なんでこんなに怒りの感情が湧くんだろう?と考えたら、

ボールがたまたま当たっちゃったことよりも、

音に驚いちゃうことよりも、

フォローがないことに強く悲しみを覚えたことに気づきます。

自分が嫌なことされたのに、その嫌な気持ちを回収しにきてくれない他者に対して、自分が蔑ろにされた感覚。

存在否定に近い感覚に陥ります。
だから悲しいし、悲しみが怒りに変わるのかな。

書きながらすごくオーバーな感情だなぁと思いました(笑)
でもメタ認知すると、自分の負の感情から一歩引けるのがとてもいいですね。今後も立ち止まって、自分が「構ってほしい」となる心を受け止める練習を重ねていきます。

みなさんが怒りを覚えるときはどんなときですか?


そして日常はつづく。


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