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2010年、ぼくは3週間家に帰れないADだった【大塚たくまのこれまで #05】

こんにちは。ライターの大塚たくまです。37歳になり、自分のこれまでの戦いを振り返ってみたくなりました。これまで、ライターとして他人の物語を書くのが仕事でした。はじめて、自分の物語を書いてみます。

ぼくの社会人生活のスタートは2010年。福岡大学を卒業して、テレビ番組の制作会社に入社しました。配属先は某テレビ局。上司が、配属先の番組に僕を紹介してくれた時、「よろしくお願いします」という言葉の後に言い放った、最後のセリフが忘れられません。

「あとは、煮るなり焼くなり好きにしてください」


今回はちょっとだけ衝撃的な内容になるかもしれません。全て2010年という大昔の思い出話。ぼくの過酷な社会人一年目の話を聞いてください。

バラエティ番組ADの仕事内容

激務とは聞いていましたが、ADの仕事は本当に激務でした。ぼくが配属されたのは、毎週放送される、30分のトークバラエティ。

ざっと、2010年当時の仕事内容を思い出してみましょう。14年前のことですが、思い出せるだけ思い出してみます。

①会議準備

まずは番組の制作会議の準備です。確定しているゲストの資料を準備します。ゲスト資料の内容は主に以下の3つ。

  • 本人のWikipedia

  • 所属事務所のプロフィールページ

  • 過去のインタビュー記事全部

過去のインタビュー記事全部なんてどう集めるのかと思いませんか。

これ、当時は大宅壮一文庫の雑誌の記事検索サービスで芸能人名で検索して、全てのデータをFAXで取り寄せていました。

中の人、凄い作業量だったと思います。ベテランであればあるほど、分厚い資料になりました。今でもそんなことやってるのかな......。

そうやって作った資料をコピーして製本します。テレビ局内にあるコピー機は自動でホチキス綴じまでできて便利でした。

そんな冊子を人数分準備すると「少なすぎる」と怒られます。なぜか人数分の2倍用意するのが掟でした。ディレクターや放送作家が複数要求することがあるからです。そのため、いつも紙の資料は大量に余っていました。

どう考えてもPDFで共有して、必要な人だけ自分で印刷すればいいのですが、そんなことは言っちゃダメみたいです。

会議の準備は資料だけではなく、飲み物も必要でした。飲み物くらい、自分で必要なものは買ってこいと思いますが、経費らしくてそうはいきません。

  • コーラの1.5リットル

  • 水(なぜか絶対Volvic)が2リットル

  • 緑茶(伊右衛門か綾鷹)が2リットル

  • 缶コーヒーの無糖、微糖、カフェオレを4本ずつ

しかもたまに「ヤクルト買っといて」とかいう人もいて、謎に増えていきました。自分で飲むもの、自分で買いなよって思うんですが、経費なんですよね。

②取材

制作会議が終われば、会議の内容に従って、各ディレクターが詳細の企画を行い、必要な取材が始まります。

取材は基本的にディレクター自身や一緒に放送作家、さらには「リサーチャー」と呼ばれる専門職の方々が行い、ADが補助をすることもあります。

ぼくが担当していた頃は、ゲストの元カレや元カノを探る企画を熱心に行っていました。当時でも「そんなことしていいの?」と思いました。今ではこんな企画は炎上しそうな気がします。インタビューで出た情報を頼りに、知り合いを辿って連絡してみたり、行きつけのバーに電話をかけて探したり。

生成AI作「電話をかけまくるAD」

「そんな取材、みんな相手にしないだろ」と思うのですが、テレビ局の名前を出すと、けっこう皆前のめりで協力してくれるのです。社会人一年生のぼくは、そこに驚きました。みんな、なんだかんだテレビに関わってみたいものなんだ。

取材しまくり、調査しまくりで、到底放送できないようなヤバい情報もたくさん入ります。取材や調査の7割以上は本編で使わないものでした。「たった15分のトークコーナーのためにこんなに調べるのか」と感じたことを覚えています。

取材内容をもとに、ディレクターが台本を執筆します。ちなみにこの時のWordでつくる台本に使用するフォントは絶対に「HG丸ゴシックM-PRO」でした。

こういうやつ

台本に限らず、企画書など全ての書類が「HG丸ゴシックM-PRO」です。あまりに気になったので、先輩ADに理由を聞いてみたところ、「楽しそうな感じがするからじゃね?」と言ってました。当時は、確かにそうかもと思ったことを覚えています。ほんとにそうなのかもしれません。

③収録

取材が済んだら、いよいよ収録です。

収録準備もADの仕事。収録のスケジュールをスタジオや楽屋にペタペタ。タレントの名前が書かれた札を印刷して、楽屋に挟んだり。台本をスタッフの人数の2倍印刷。楽屋に必要なお菓子や雑誌を買って、楽屋に並べて。

収録中はマジックやペンがたくさん入ったショルダーバッグを肩に掛け、ベルトにはテープをたくさん通してました。まさに想像通りのADスタイルです。

こんなかんじ

収録が始まる前には「前説」といって、芸人さんが漫才をして、観覧客をあっためます。「前説」の芸人さんの仕事は漫才で笑わすこと以上に「拍手!」と声がかかったら拍手をしたり、笑いどころは笑ったり、という観覧客にお願いしたい動作を練習してもらうという役割があります。SEで笑い声や拍手を足すこともできますが、なるべく生の音を使いたいそうなのです。

それを「コスト削減」と「ADの度胸づけ」という謎の理由で、ADが前説するということがありました。ぼくも前説をやることがありましたが、もちろん何も持ちネタはないし、丸腰で70人くらいの観覧客の前に立つことになります。

生成AI作「前説をするAD」

「ADの大塚です!いきなり前説に出ろと言われて立ってます。ヤバいですよね!」みたいな話をするしかありません。そのため、基本的には「拍手と笑い」の練習に終始します。ただそれも全力でやると、案外盛り上がります。テレビスタジオズハイ、みたいな。

最終的には「お客さんから言われた歌を何でも歌って、歌い終わったら拍手してもらう」みたいなことをしていました。大変な仕事ですね。そのトークバラエティのMCのタレントの持ち歌を歌い、そのタレントに「歌声が澄んでいて綺麗だった」とイジってもらったことは自慢です。

収録中はトークに登場した固有名詞を一生懸命メモします。

生成AI作「メモするAD」

番組で画像を出す可能性があるので、収録が終わった直後から各所へ許可取りを行います。そうしなければ、編集作業に間に合いません。

メモに夢中でもいけません。笑いどころと思ったら、大声で笑います。

生成AI作「爆笑するAD」

その笑い声に釣られ、観覧客の笑いを誘うのです。僕は何度も先輩に「お前仕事できねえんだから、せめてちゃんと笑うくらいしろよ」と怒られていました。でも、僕は必死で大声で笑ってたんです。それでも言われる。

すると先輩が「わかった。お前、普通に笑いすぎてるんだわ。先輩の笑い方をよく聞いてみろ」と言われ、先輩たちの笑い声を聞いてみました。

「デーヘーへ!デーヘーへ!」
「ブファファ!!ブファファ!」
「ダッハー!ダハハ!!ダハハ!!」

みんな鳴き声みたいに、自分の変な笑い方がありました。周囲に響き渡るようにするため、浮いて聞こえるような変な笑い方をわざとやっていたのです。普段の笑い方と違う笑い方をしていました。いわゆるスタッフ笑いというのは、こうして生まれていたのでした。

ぼくは「アハハハ!!アハハハ!」とちょっと高い声で笑うようにしました。日常生活でやったら、100%違和感ある笑い方です。

④編集補助

これが一番きつかったかもしれません。編集作業は基本的に夜通しで行われ、1-2日ぶっ通しで行われます。途中で仮眠を挟んだりしながら行い、常時睡眠不足です。

この時、ADは昼食と夕食を準備しなければなりません。出前を頼んだり、テイクアウトを買ってきたりします。この時に支払いを立て替えなければならず、いつも大量に現金を持っていました。

パシリにはいくつか常識がありました。

例えば、マックの「飲み物」は基本的にはコーラです。そして、圧倒的一番人気はダブルチーズバーガーでした。「なんでもいいからマック買ってきて」と言われたら、「ダブチとコーラのセット」を買ってくれば、文句を言う人はいません。

「ペヤング買ってきて」と言われて、ペヤングをそのまま差し出したら、メチャクチャ怒られます。ペヤングにお湯を入れ、湯切りして、ソースを入れ、かき混ぜて、ふりかけをかけた状態で渡さなければいけません。

またタバコを買ってくるのも重要な任務です。ぼくは今でもタバコを吸いませんが、パシリ用にtaspoを持っていました。各ディレクターの愛煙タバコを把握し、「タバコ!」と言われたら買ってこなければなりません。

どうせ言われるので、すぐに最初からタバコは買って隠し持つようになりました。すぐ差し出すと「やるじゃねえか」と喜んでくれます。

マイルドセブンがメビウスに名前を変え、商品ラインナップに変更が生じた時は説明が大変でした。マジで勘弁してくれと思ったことを覚えています。

パシリで一番嫌だったのは「エロ本買ってこい」と言われたことです。雑誌名は言わずに、ただエロ本を買ってこいと。部屋を見渡すといくつかエロ本があったので、それを参考に買ってくると「こんなんじゃねえ」と。ぼくは、各コンビニへエロ本行脚をする羽目に。

生成AI作「エロ本の買い出しをするAD」

買ってきたら、それを机に並べて「お前、何やってんの?こんなんが好きなの?気持ち悪ぃ」と言われました。なんの時間なんだマジで。ぼくにエロ本のおつかいさせて、少しでもストレス解消になるんならええけども。最悪の思い出です。

こうした編集作業を経て、番組は完成。放送されたらホッとします。でも、また来週の放送はやってくるのです。この仕事は終わりがありません。

仕事をしていて嫌だったこと

はっきり言って、とてつもなく過酷で、地獄のような生活を送っていました。肉体的にも精神的にもボロボロだったと思います。嫌なことの代表的なことをいくつか挙げていきましょう。

①基本的にみんな乱暴

超体育会系で基本的にみんな乱暴で品がありません。新人ADでわからないことも多かったのですが「知らねえよ」とキレられることが多々ありました。「知らねえよ」が口癖のディレクター、多かったな。

不思議なもので人に乱暴にされると、自分も少し乱暴な性格になります。この年だけ、店員やタクシーの運転手などにキレる時がありました。今では全くありません。

物を大切にしないのも衝撃的でした。デスクには「文房具の引き出し」というものがあり、大量のマジックやボールペンなどが入っています。普通、マジックやボールペンなんてそんなにインク切れは起こしませんが、その引き出しはすぐにマジックやポールペンが大量に補充されるのです。みんなすぐに落としたり無くしたりする。

だから、デスクとデスクの間を覗くと、たくさん、まだまだ新品に近いペンやマジックが大量に落ちています。扱いが雑。常軌を逸した光景でした。流石に今は改善されてるのでしょうか。

②全然寝られない

まともな睡眠がなかなか取れません。ソファで横になって寝たり、椅子を並べて寝られたら良い方で、基本的には机に突っ伏して寝てました。

徹夜続きでフラフラしながら歩いてたら柱に頭を強打。頭を切ってしまい、あまりの痛みに机に突っ伏したところ、眠すぎてそのまま就寝。顔中血だらけで寝ているところを、警備員にすごい剣幕で起こされたのは、最悪な思い出です。

徹夜続きで編集作業中にオチたり、会議中にオチたりすることがあり、起こされてました。「寝ちゃいけない時に寝るのは睡眠障害。病院行ってこい」と言われたこともありましたが、連日徹夜の人間が発言機会のない会議で眠くなるのは、今思えば普通のことだと思います。

「次寝たら坊主」と言われても寝てしまったことがあり、坊主にしたことがありました。その時は逆に他のスタッフが震え上がり「バレたらヤバいから、他人の人に何で坊主にしたのかと聞かれたら、イメチェンって言え」と言われました。

③家に帰れない

とにかく帰宅できませんでした。

最長で3週間帰れなかったことがあります。でも、3週間前は3週間も外泊するつもりではないので、着替えがありません。一応、家に帰れた時は着替えを何枚か持って行くのですが、すぐに使い果たすので、コインランドリーで洗濯することもよくありました。ジーンズは履き倒してボロボロで異臭を放っていました。

また、そんなに長く外泊すると思わず、洗濯物を取り込めなくて、大変なことになったこともありました。外泊中に何度も雨が降っては晴れ、を繰り返した結果、洗濯物は風に煽られて端に追いやられて一体化。大きく捻れた一つの塊になっていました。

石のようになったTシャツを、一枚ずつバリバリ剥きながら情けなくて泣いたのもまた、最悪な思い出です。

④ディレクターになりたくない

こんな話をしていると、ADが過酷でディレクターは楽してると思うかもしれませんが、むしろ逆です。ディレクターの方が、断然過酷だと思いました。ADの方が楽です。責任がないから。

とにかく死ぬほどテレビが好きじゃなきゃ務まらない仕事です。ぼくには無理でした。

特にディレクターが「3か月くらいマトモに家族に会ってないよ笑」と話してたのを聞いて、ゾッとしました。ぼくはそんな父親になりたくない、と思い、「ディレクターになりたくないのに、ADを続けるのは、ここの人たちに失礼だ」と思ったことを覚えています。

ADになったことを後悔はしていない

春先に90kgだった体重は7月には75kgになっていました。これは、その頃の写真です。あまりに酷い就労環境で、ぼくは耐えきれず、半年でADを辞めました。

ずーっと起きてたので、激忙なのに1か月が長く感じるという稀有な体験をしました。1年くらい働いてたような気がします。絶対に続けられないと思いました。テレビ局は合ってない。しっかり絶望して退職しました。

でも、ぼくはテレビの世界でこんな過酷な暮らしをしたことを悔んでいません。みんな乱暴だし、ぼくにキツく当たっていたけど、それは一人一人が必死だったからだと理解しています。ぼくが退職するという旨を伝えた瞬間、「そっか」と急に顔つきが変わり、みんなが優しくなりました。

ぼく自身は嫌だったし、就労環境には大きな問題はあったと思うけれども、あの現場に悪人はいませんでした。少なくとも、ぼくはそう思っています。

身近な場所にタレントがいて、面白いことを次々に考える人の空気感や、その過程を感じられたことはぼくにとって大きな財産になりました。日本を代表するタレントを身近で見まくったおかげで、大物を目の前にしても萎縮しない度胸もついたし、精神力も身につきました。

そして何より、一つのことにしっかり絶望して次に進む、という経験ができたことは学びだと思っています。

2010年10月。ぼくは無職のまま、埼玉の家を引き払い、福岡県宗像市の実家にしょんぼり戻ったのでした。

テレビでの体験は、良くも悪くも、ぼくにとって、大きな大きな挫折経験でした。

(つづく)

今日の一曲/ヘビーローテーション(AKB48)

この曲を聴くと、ブワッッッと編集室の光景が浮かんできます。YouTubeで無心でボーッとこのPVを眺めていました。かわいくはしゃぐAKB48の姿を無表情で見つめて、ただただ、絶望していました。

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大塚たくま / 株式会社なかみ
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