どっちを選ぶか?いや、基本一択でしょ⁉え!マジか‼これってニッチな選択なのか⁉(;´・ω・)
…えー、ふざけたタイトルでスイマセン( ̄▽ ̄;)。
noteでの連続投稿日数と、フォロー頂いてる方の人数が、ほぼイコールという奇跡がそれなりの日数続いています(笑)。
別に狙っているわけではなく、本当に偶然です。
フォローを頂いてる方々、いつも本当にありがとうございます。
さて、長期にわたり投稿記事を書いていると、多くの方と出会う反面、多くの方が投稿から離れていく姿も目にしています。
日常生活がありますから、noteがあくまでSNSであるならば、優先順位を下げ、自分の生活を保つという選択が最優先になると思います。
今回は、この「noteの優先順位」について考えてみようと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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仕事や家事、育児などの様々な事柄が、日々の時間を少しずつ奪っていきます。
…奪うというのは言葉が悪いかもしれませんが、自分の趣味や娯楽といった「やりたいこと」を抑え、「やらなければならないこと」に対して時間というリソースを費やすことは、社会人として非常に正しい選択だと思います。
ですから、最初に述べたように、日々の生活が多忙であればあるほど、まず最初に時間を削るべきなのは、自分の趣味や娯楽の時間ということになるでしょう。
そして、再び時間に余裕ができたときに、また投稿をスタートさせる。
そんなスタンスでいいと、私は思っています。
とはいえ、一度離れてしまった場合、再び記事を書き続けるというのは、なかなかに困難なのかもしれません。
連続投稿を続けていると、いつのまにか「書く権利」から「書く義務」となっていることがあるのかもしれません。
noteから離れることで、そのようなジレンマから解き放たれ、自分のペースで好きなときに好きな記事を投稿する、それが、本来のnoteとの付き合い方だと私も思っています。
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…こんなことを書いていますが、現在の私は、それでもどうにか時間を作ってやろうと、このように毎日投稿を続けています。
投稿を続けていると、次第に自分の正当性を主張したくなります(笑)。
毎日投稿することが、たとえ義務となってしまっているのだとしても、その行為が何をもたらすのか?を考えるときが、しばしばあります。
最近考えたのは、感情をコントロールする効果です。
自分の心の内を文章で表現するということは、自分を俯瞰で眺めることに慣れていく作業とも言えるでしょう。
ですから、例えばパートナーとの辛い別れであったり、親との離別であったり、些細なことから起こってしまった親しい人とのケンカなど、考える時間や、逆に何も考えたくない時間というものが必要となるシチュエーションで、noteへの投稿が心の救いになることもあるのだと思っています。
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「連続投稿しているのだから、今日も書かなければ…」
…このような言葉は自己強迫観念のようでいい表現ではないでしょうが、こういった想いから記事を綴ることで、心の整理をもたらし、結果として感情のコントロールに時間をかけることなく、再び普段の生活を取り戻すということもあるのではないでしょうか?
本来であれば、SNSにかける時間というのは、趣味や娯楽の時間なので削るべきものなのでしょう。
ですが、あえてその時間を重要視することで、得るものもあるのではないでしょうか?
「偶然の産物」という言葉がありますが、日々の投稿というのは偶然ではなく、自らの意思で必然的に行う作業です。
その結果、得るものがあるのであれば、それは「必然の産物」と言えるのではないでしょうか?
もちろん、日常生活を犠牲にしてでも投稿をするべき、という話ではなく、どのような選択をしたとしても、その選択自体が次の答えをもたらす行為であると私は思うのです。
私自身、投稿をどれだけ続けることができるかわかりませんが、書き続ける意味は、少しずつ自分の中で固まってきているようにも思います。
改めて言いますが、noteは趣味や娯楽です。
続けなくても意味はあるし、書き続けても意味はあるのだと私は思います。
生活の中で時間を削らなくてはならない必要に迫られたとき、あなたはどんな選択をするでしょうか?
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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