言葉には反作用があるって話。
個人的なお知らせですが、しばらくの間、アイコンを変更しますので、「…誰?(;´・ω・)」と思うかもしれませんが、ご了承ください( ̄▽ ̄;)。
上記の記事の通り、勤めていた会社を退社したので、前職の画像を使用しているのもおかしいのでは?と思い、現在の怪しげなアイコンを仮設置中です(笑)。
また機会があれば、どこかで撮影してくるので、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m。
…さて、今回は「言葉の反作用」について書いていこうと思います。
「言葉の反作用」と聞いて、あなたはどんなことを想像しますか?
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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社会的自我の形成
「言葉の反作用」を説明するにあたり、まずは言葉の特性の一つを共有しておきたいと思います。
社会的自我(読み)しゃかいてきじが
世界大百科事典内の社会的自我の言及
【言語教育】より
…言語の人間形成的機能として指摘されているものは多様であるが,そのなかで次の三つは基本的に重要である。(1)言語はなによりもまずコミュニケーションの有力な手段・方法であるが,言語は単に相互の意志,感情や伝達内容を伝えるだけでなく,場の状況や相手(他者)のちがいに応じて伝え方を選択することを必然化し,結果として,ある場面で言語をどう機能させるべきかということを判断する精神の機能(〈社会的自我〉)の形成を促す。この社会的自我は,自己の内のもうひとりの自己として,複雑な人間関係を律する自我として機能する。…
…いきなりの長文の引用ですが、ここでお伝えしたいのは、「言葉は単に伝達の手段ではなく、他者との社会的な関係を構築するうえで、”どう伝えるか?”という選択と判断が求められる」ということです。
つまり、私たちは普段から言葉に対して、「他者に影響を与える、何らかの力を有するモノ」として取り扱っているワケです。
そこには、言葉そのものである「バーバル・コミュニケーション」だけでなく、非言語による「ノンバーバル・コミュニケーション」も含まれます。
「言葉は自分だけでなく他者にも影響を及ぼす」…これは、社会生活をしている方であれば、納得できるでしょうし、この作用を強く感じる方だからこそ「note」に参加しているのだと思います。
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成長に伴う情報共有
私たちの多くは、幼少期より社会性を育むために、教育機関という集団生活の場に身を置くことになります。
ここでは、社会生活に必要な教養だけでなく、いわゆる「一般常識」も刷り込まれます。
ですから、私たちは必然的に多くの情報を、他者と共有することになるのです。
「倫理」や「道徳」、あるいは「法」というのは、人間社会において、生活を維持するうえでの根源となるモノなので習得は必須ですが、「他者理解」という、これまた社会生活に必要な教養だけは、他に比べて個人差が生じやすい曖昧さを含んでいます。
「他者の存在を認める」
「他者の発する言語を理解する」
「他者の心理状態を推察する」
…このように、「他者理解」といっても、どこに軸を置き、どのような要素に重きを置くかによって、一人ひとりの捉え方は大きく異なります。
これが「個人の価値観の形成」に大きく作用することは想像に難くないでしょう。
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価値観・混沌・多様性
私たちが求めてやまない「自信」という概念は、「自分で自分の能力や価値などを信じること」とされています(デジタル大辞泉より引用)。
一方で、「他者理解」という観点から「多様性の認容」も叫ばれています。
「多様性の認容」とは、「他者の能力や価値などを認めて受け入れること」です。
…つまり、「自分の価値を信じる」ために他者を比較対象にすることは禁じられていると考えることができるのではないでしょうか?
「他者との比較は差別意識を助長する」というコトなのでしょうが、そもそも「倫理」や「道徳」は「人の善なる部分」を是とする考え方であり、非なる部分…「人の悪しき部分」との比較をもって判断される概念だとすると、そこには矛盾が生じることになります。
自己の価値観の是非を問う際、他者を持ち出さずに答えを得る方法などあるのでしょうか?
やや極論かもしれませんが、混沌とした社会で各々が正しい判断をする困難さは、人が生きている限り避けられない命題なのかもしれませんね。
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言葉の反作用
人は成長の過程で、先達として他者に対し助言や指導を行う立場に立つことがあります。
その際、相手の価値観を受け入れつつも、「間違った信念」や「偏った概念」を感じることもあるでしょう。
ですが、覚えておかなければならないことは、気づかせることに留め、矯正してはいけないということです。
誰しも、社会的自我を有し、自身の価値観を信じたいと思っています。
それゆえに、許容できない信念や概念に対し、自らが是とする価値を共有しようと試みてしまいがちですが、それでは多様性を否定しかねません。
「良かれと思って…」というのは、やや厳しい言葉を使いますが、「他者否定」となる危険性もあるのです。
また、「気づかせる」行為にも、決して自分の中にある答えに沿って導くのではなく、相手の中に答えがあるのだと信じることが必要です。
そうでなければ、相手の「間違った信念」や「偏った概念」を解きほぐすはずが、自らの価値観を刷り込むことになり、相手の社会性そのものを歪めてしまいます。
これが「言葉の反作用」だと、私は思うのですが、あなたはどのように感じるでしょうか?
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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