ぬるま湯に浸かった人生から抜け出すには⁉
まずは「ぬるま湯」の定義から確認してみましょう。
【ぬるま湯】- 微温湯 -
1 ぬるい湯。ぬるゆ。びおんとう。
2 刺激や緊張のない境遇や生活。
…漢字だと「微温湯」なんですね(;´・ω・)。
初めて知りました。
他にも調べてみると、40度前後の水温で、触れてみて熱くもなく温かくもないが冷たくもないと感じる温度域がぬるま湯なんだそうです。
とは言え、今回のぬるま湯は「刺激や緊張のない境遇や生活」の意味合いで用いていきます。
浸かってみると分かるのですが、ぬるま湯人生は、かなり快適に感じます。
そこから抜け出すには、やはり何らかの刺激が必要です。
その刺激とは、どのようなモノであるのが理想的なのでしょうか?
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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まず思いつくのは「ぬるま湯の温度を変化させる」ことです。
熱くするのか、冷たくするのか…?
そもそも「刺激や緊張のない境遇や生活」について論じているのですから、ここでの湯の温度とは、自分を取り巻く環境要因を指します。
「熱く」とは、熱量が上昇することであり、テスト前に周りが勉強を始めたので自分もやむを得ず机に向かう…といった受動的な行動として表すことができると思います。
また「冷たく」とは、熱量が停滞・減少することで、テスト前なのに周りが遊び惚けていることに危機感を感じて勉強を始める…といった危機感からの主体的な行動として表せそうです。
「受動的」と「主体的」という言葉を比較すれば、「主体的」な行動が優れているようにも感じますが、どちらも環境の変化によっての行動なので、ジャンケンで言えば「後出し」です。
…「主体的な後出し」って、変な日本語ですよね( ̄▽ ̄;)。
では積極的な主体性を表す行動とは、どんな行為なのでしょうか?
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答えは簡単で「自分の熱量を上げること」です。
自分の心に火が灯れば、ぬるま湯は冷や水に感じ、快適ではなくなるでしょう。
ですから、環境要因の変化を待つのではなく、自らがぬるま湯に違和感を感じる状況を作り出さなければなりません。
どうすれば違和感を抱くのか?
私はストレスが活用できると考えています。
ストレスとは、人に害を与えるものだと考えている方もいるでしょうが、人を生かしているのもストレスなのではないでしょうか?
私たちは、母親の胎内という「刺激や緊張のない境遇」から、どのように、このストレス社会に生まれ出るのでしょう?
快適だと思っていた母体で成長していくと、いつしか窮屈感から、抜け出る準備が始まるのだと思います。
また、母親の身体に負荷をかけないようにしようという本能的な慈愛から、この地上に落ちてくるのかもしれません。
しかし、ただ生まれただけでは世界に適応できません。
快適な胎内から自分の足で立たなければならない世界へ…。
その大きなストレスから私たちは啼くのだと思います。
「産声」という生きていく証を叫びながら。
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私たちは生まれた時に、すでにぬるま湯から抜け出す手段を得ているのだと考えるなら、抜け出すことよりも、むしろ居続けることにストレスを感じるのではないでしょうか?
そこが自分の安住の地ではないと知っているのだから。
日々のストレスは、決して私たちを蝕むだけではなく、今を今以上にするための未来へのチケットなのかもしれません。
ぬるま湯に浸かるという惰性は、言葉を変えれば「堕生」だと思います。
生きながら堕ちていくのは、堕ちているときは楽でしょうが、底についたら戻ってくることは出来ません。
どこかで爪を立て、しがみつき、這い上がらなければ、光あふれる場所には辿り着けないのではないでしょうか?
そんなことを考えていると、なぜ行動することが大切なのかを感じられるのではないかと私は感じます。
もし、今の環境がぬるま湯だと感じているのなら、自らの意思で這い出てみてはいかがでしょうか。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。
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