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「何もないところで躓く」…ホントにそうなのか⁉
歳を重ねるにしたがって、何でもないようなところで躓いたりしませんか?
【躓く】つまづく
何かに足の先が突っかかって転びそうになること。または比喩的に、途中で困難があったり障害があったりしてうまく行かなくなること。
(実用日本語表現辞典より抜粋)
私も、ちょうど今日の朝、駅のホームで躓いて恥ずかしい想いをしました。
ただ歩いているだけなのに、歩き方なんていつも変わらないハズなのに、どうして転びそうになってしまうのか?
思い返せば、今よりも頻度は少なかったように思いますが、若い頃にも躓くことはありました。
ということは、必ずしも「中高年あるある」ではないのでは⁉
…そんなところから、この記事は始まります。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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物理的に躓くメカニズムを考えてみましょう。
…まあ、考えるまでもなく、歩いている際に足の運びが地面スレスレになってしまい、わずかな段差であったり、段差がなくても脳がイメージしている着地点よりも早い位置で足と地面が接地することで、いわゆる「何もないところで躓く」という現象が起こるのだと思います。
では、躓いた後、私たちにはどのような変化が起こるでしょうか?
先日はホームで二度も躓くことがあったのですが、これも変化があったからこそ起こった出来事だと私は感じています。
その変化とは、「歩き方を意識する」ことです。
私たちは、歩くことや呼吸をすること、食事中に咀嚼することなど、実は無意識に行っていることが多いのです。
普段と変わらず食事をしていても、咀嚼中に頬の内側や舌を噛んでしまった経験はありませんか?
躓くことと同様に、このような状況に陥ることで、私たちは無意識の行動に意識を向けるようになります。
…そう考えるならば、「何もないところで躓く」とは、単なる物理的な現象なのではなく、心理や思考などの内在的な現象という側面も持ち合わせているのではないでしょうか?
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ここからは個人的な見解です。
加齢とともに「何もないところで躓く」ことが増えるのだとすれば、それは身体的な衰えもあるかもしれませんが、無意識な行動も増えていると考えられるのではないでしょうか?
つまり、多くの事象を「当たり前」だと錯覚して、意識することを止めてしまったがゆえに、無意識な行動が増え、脳内イメージと身体機能の誤差に気づかず、躓いてしまうのではないかと思うのです。
また、躓いた後に行動を意識する行為は、改めて自分を顧みる行為であり、躓いたことで、より甚大な被害を食い止めていると考えることも出来ると私は感じています。
「躓く」の意味合いを引用すると、「何かに足の先が突っかかって転びそうになること」で、「困難があったり障害があったりしてうまく行かなくなること」を無意識から顕在意識へ呼び戻していると考えることは出来ないでしょうか?
そう考えるならば、「何もないところで躓く」とは、リスク喚起であり、「夢診断」などのように自分自身の潜在意識から発せられたメッセージなのではないでしょうか?
「躓く」ことで「転ぶ」ことを防いでいる、ということです。
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歩くことや呼吸をすること、食事を咀嚼することなど、私たちは多くの行為を無意識のうちに行っています。
ですが、呼吸を意識することでヨガや瞑想ではストレスを解消したり、感情をコントロールすることが出来ます。
食事中の咀嚼を意識することで、私たちは健康を保つことが出来ます。
同じように、歩くことを意識することで得るものがある、ということです。
それは、健康やストレスコーピング、代謝促進といったモノだけでなく、無意識の中に沈んでしまっている潜在リスクを警告する役割なのかもしれません。
あくまでも個人的な意見ですので確証はありませんが、「道」で躓いたときは、きっと「未知」に躓く予兆なのかもしれませんね。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。