「業 -GOU-」
「業」は、読み方で意味が変わってしまうので、ルビを入れてみたのですが…。
あら不思議‼(・∀・)ノ
映画のタイトルっぽくないですか?(笑)
ということで、今回は「業 -GOU-」について、書いていこうと思います。
なお、以下「業」にルビは振りませんので、悪しからずm(__)m。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
・ 前世の善悪の行為によって現世で受ける報い。「業が深い」「業をさらす」「業を滅する」 ・ 理性によって制御できない心の働き。(デジタル大辞泉より)
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「業」に翻弄される日々
あなたは、何をやっても悪い方向にしか行かないという経験をされたことはありますか?
決して独立独歩を貫いたわけではなく、いわゆる「一般的」だとか「普通」の選択をしているはずなのに、すべてが空回っていく…。
私は、このような状況を「業によるもの」として、深く考えないように生きる時期がありました。
しかし、目を逸らしても、耳を塞いでも、ただただ坂道を転げ落ちていくという経験は、人の心が壊れていくには充分すぎるものでした。
「どうして自分だけが、こんな目に遭うんだ…」
怒りや恨みの矛先は、他人から始まり、自分へと還ってきます。
「因果応報」
いんがおうほう
【因果応報】
過去および前世の行為の善悪に応じて現在の幸・不幸の果報があり、現在の行為に応じて未来の果報が生ずること。
どれだけの罪を前世で犯してきたのかと、打ちひしがれる日々が、私にはありました。
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「茨の冠」
「業」から逃れる術はありません。
抗うことにも疲れ果て、絶望に身を任せると、不意にやってくるものがあります。
「希望」です。
ギリシャ神話に登場する「パンドラの箱」というモノをご存知でしょうか?
神ゼウスが、まだ「災難」というものが無かった世界に、すべての悪と災いを封入した箱を持たせてパンドラという女性を地上に送るのですが、 彼女は地上に着くと、好奇心からその箱を開けてしまいます。
あらゆる災いが人間界に飛び出し、慌ててフタをしたが、箱の底に「希望」が残っているだけだった…という話です。
なぜ、あらゆる災いとともに「希望」は封じられていたのでしょう?
今でこそ、違う考えを持てるようになりましたが、当時の私には、「希望」こそが、もっともタチの悪い災いだと考えていました。
上げて、落とす。
餌に釣られて罠に嵌る感覚です。
さらに例えるなら、英雄の頭に飾られる月桂樹の冠を模した、決して外れぬ「茨の冠」を、「運命」という神にも似た存在の嘲笑とともに頭蓋に打ち込まれた感覚でもありました。
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やがて悟る「業」の正体
「前世」や「来世」といったスピリチュアルな世界に罪を擦りつけ、現世の生き方を、まるで他人事のように「生きるための生」ではなく「ただ存在する生」として過ごすうちに、ある種の「悟り」を啓くこととなります。
「業」とは、「前世の行い」などではなく、「現世の行い」なのです。
この世に生を受け、積み上げた行いが、すべてなのです。
「何をやってもうまくいかない」のは、自分の考えが足りなかっただけ。
「空回り」をするのは、本質からズレていただけ。
ほんの些細な努力や行動の欠如が、すべての原因なのです。
「業」から逃げず、自らの弱さからも逃げず、受け止める勇気を持つ。
「業」とは、「自分の弱い部分」の偶像だったのです。
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「自分」というヴェールを脱ぐ
人は、己を護るために、いつからか見えないヴェールを身に纏い、それに気づくこともなく過ごすようになります。
ヴェール越しに覘く世界が、「リアル」だと錯覚してしまうのです。
私たちは「信念」をもつことを尊びます。
たとえそれが、「間違った信念」であっても…。
心理学用語に、「イラショナルビリーフ(非合理的な思い込み・信念)」というモノがあります。
この思考に陥ると、自分のミスは認めにくくなる、つまりは「業」という逃げ道を正当化してしまうということです。
己の過ちは、自身の責任でしかありません。
「思い込み」というのは、無意識や潜在意識の働きにより形成されるだけでなく、「思い込もうとする意思=意識」によっても形成され得るのです。
ですから、私たちは常に己との対話を繰り返し、頑なになっている心があれば、調える必要があるのです。
改めて、個人的な考えではありますが、「業」とは「弱い自分」の隠れ蓑です。
その昏きヴェールを脱ぎ捨て、より遠きを見つめる真の眼を持てば、きっと悪循環を断ち、善き自分に成れる道が見えるはずです。
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ということで、若干「中二病」っぽい表現もありましたが(笑)、最後までお読みいただきありがとうございました。
やや暗い内容だったかもしれませんが、現在の私は、いたって能天気に毎日を鼻歌交じりに生きています(*'▽')♪
それは、「業」という自ら創り出した偶像に翻弄され、打ちひしがれる日々を超え、達することのできた「悟り」の成せる「業(わざ)」なのかもしれません。
誰かの何かの参考になれば幸いです。
今回の投稿は以上です。
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