「手添え」の難しさ
例えば、お子さんの逆上がりや自転車の練習を手伝うとき、まず最初にどんな教え方をするでしょうか?
今だと、YouTubeで「逆上がりの仕方」や「自転車の乗り方」といった具合に検索するのでしょうか?
現代の子供にとってYouTubeは、親の代わりにいろいろ教えてくれるメディア媒体なのかもしれませんね。
面白そうな実験も勉強が楽しくなる方法も、ゲームの攻略法だって、親に訊くよりもYouTubeのほうが自分にあった動画で学べるので、理解が早いのかもしれません。
とは言え、それではあまりに親の威厳がない気がするので、いつまでも、これだけは子供に負けない‼というものはあったほうがいいと私は思います。
さて、個人的には、子供に逆上がりや自転車を教えるときには、二つの手順があると考えています。
一つは、言葉で説明する方法。
もう一つは、身体を支えたり、手添えをして身体で覚えさせる方法。
どちらにしても、子供の適性を考えて練習していけば、きっとできるようになります。
では、知的や発達の障がいを抱える人に対して行うには、どちらがいいのでしょう?
私たちは普通に暮らしている間は、このような疑問に直面することが、あまりないかもしれません。
ですが、一昔前と違い、障がいを抱える方の社会生活を地域で支援することが、徐々に当たり前になってきています。
ということで、今回は少し難しいテーマかもしれませんが、「障がいを抱える方への手添えは正しい支援なのか?」について書いてみようと思います。
今現在、障がいを抱える方と全く接点のない方も、今後一生関わることがないと断言できない以上、最低限の知識として記憶してくださると、障がいの有無にかかわらず、過ごしやすい地域社会に近づくと思いますので、最後までお付き合いいただけると幸いです。
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先に支援の基本的な考え方の一つを、ご紹介します。
支援には、「言語指示」「ジェスチャー」「見本の提示(モデリング)」「手添え」という段階が存在します。
詳しくは、下記のリンクを参照してください。
…あ、専門的な話だと感じるかもしれませんが、私も福祉の世界に入って半年程度なので、知識としてはそこまで難しくないので大丈夫です。
難しいのは、実際の支援の場面です。
一般的には、「手添え」で一連の身体の動きを覚え、「見本の提示(モデリング)」でやってみせることで客観的に動作を観察し、「ジェスチャー」で、細かな動作に注意を払い、「言語指示」で定着させる方法が適していると考えられていると思います。
もし、双子のお子さんがいる方は、「言語指示」から教えるケースと「手添え」から教えるケースを試してみると分かりますが、「手添え」から始めた方が根本的な問題に直面することなく学習すると思われます。
しかし、今は知的や発達の障がいを抱える方についての話です。
どちらから始めると、どうなるのかをイメージしてみてください。
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新しい作業や動作を記憶させる場合、「手添え」から始めることで、ミスの少ない手順を修得することができます。
これは子供であっても障がいを抱える方であっても同じだと思います。
しかし、この障がいを抱える方が就労を目指す成人の場合、知的であっても発達であっても、社会参加のための何らかの訓練を行ってきているはずです。
ですから、「言語指示」から始めて、あえて失敗も想定して支援するように心掛けています。
「手添え」は、ときにその方の尖った個性を阻害してしまうような「手厚すぎる支援」となることがあるのです。
例えば、電車に乗っていて高齢者に席を譲ろうとしたら断られた、という経験をしたことがありませんか?
これは、本人(高齢者)にとって「過剰支援」であり、高齢者の方が「自分で出来ることを制限されてしまう」という危機感から断るのだと思います。
「立っているのはちょっと大変だけど、足腰が衰えるのを防ごう」と考えているのに、「座ってください」と言われたら、「他人からは脆弱な存在だと思われているのか…」と自尊心を傷つけることに繋がりかねません。
子供でも、「それくらいできるよ‼」と怒ることがありますよね。
これらは、本人のためと思って行動しているのと同時に、支援をする側が相手を自分より弱い立場だと認識しているとも捉えることができるのではないでしょうか?
ですから、支援の手を自ら払いのけて、本人は自分の力で頑張ろうとするのです。
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障がいを抱える方を支援する際、私たちはどうしても「自分よりも弱い存在」だと考えてしまいます。
ですから、常に気を配り、相手の行動や思考を先回りして支援しようとしてしまいます。
それでは、本人の主体性や可能性の芽を積んでしまうのです。
「言語指示」から始めると、ビックリするような行動をするケースに遭遇します。
しかし、よくよく考えてみると、本人にとっては合理的で効率的な動作を、試行錯誤して考える工程でもあり、むやみやたらと矯正してはいけないものでもあります。
私たちが障がいを抱える方をみるとき「出来ないこと」に注目してしまいがちですが、「出来ること」もたくさんあるのです。
つまり、「手添え」とは、私たちの考え方を押し付ける過剰支援であり、ときには本人の支援ではなく、私たちが楽に支援するための口実ともなりかねないリスクもあるのです。
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私たちは、大人になるにつれ、人に怒られることを避け、恥ずかしいと思う行動を慎み、楽をすることを覚えます。
その価値観で、障がいを抱える方を支援することは、社会参加を促す行為ではなく、私たちに従わせる支援となってしまうと感じています。
それは、支援ではなく支配です。
冒頭の子供の逆上がりや自転車についても同じです。
私たちが、本当に彼らを支援する想いがあるのなら、ともに転んでケガをするくらいの覚悟は持っておくべきだと私は考えます。
私たちは支配者ではなく、伴走者として生きることが望ましい。
障がい者支援自体、まだ半年程度のかかわりしか出来ていませんが、障がいを抱える方を支援する立場として、彼らから教わるばかりの日々が続いています。
私たちは決して優れているのではありません。
むしろ、優れているようにみせるために捨ててきた様々なものを、改めて彼らは突き付けてくるのです。
最近になって、彼らのキャリアコンサルティングやライフコンサルティングを行うようになり、当たり前という言葉が、いかに偏りがあるものなのかを痛感しています。
この一緒に転んだ痛みが、いつしか彼らとともに手に入れた勲章だと思えるよう、もっと支援について深く学んでいこうと思います。
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ということで、最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。