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1974年の『ひまわり娘』 (あと糸井重里さん、橋本治さんのことなど)

伊藤咲子さんのデビュー曲『ひまわり娘』
が、なぜか特別に好きだった。小3。

昭和49年のヒット曲 ( コンピ盤の ) を眺めていて、世界に開かれてくのはやっぱ8歳だなっておもった。社会以前に、世界に 。

息子にその話してみて、キミの8歳は?って調べてみると、2004年は ORANGE RANGE が席巻してて、ヒット曲は『ハナミズキ』とか『瞳をとじて』そういうの。あとは前年に『さくらんぼ』がヒットした大塚愛とかドリカムとか、バンプやアジカン『リライト』も ( どう聞こえていたかなぁ ) 

やっぱ特別に響いた曲が多い


やがて社会の気配も感じ始める。「過激派」「爆弾」「内ゲバ」 「指名手配」わたしの場合、社会イコール事件だった。叔母が「ブクロ」に近い都内の安アパートに住んでいたので、父がちょくちょく様子を見に行き、クルマで一人待つあいだ、子供ながらに東京の、その時代の空気を感じていた。

たまに呼ばれて、誰が住んでるかわからないアパート、の、階段を上がっていくとき、の、不気味。ショッカー(仮面ライダー)みたく現実にもそういう幸せな市民を脅かす「凶悪犯」がいるんだな…の、予感。

実際に内ゲバなんかが起きてたわけだし、その凶悪さ、陰惨さ、邪悪なものへの嫌悪感とかが、その後のバブルの華やかさ、煌びやかなイメージに覆い隠されて、今も続く政治的なものへの無関心へと繋がっている。社会。

高学年になり、キャンディーズ、ピンクレディ、ジュリー (沢田研二)。 中学から高校にかけて YMO や、横浜銀蝿が流行り、そのうちRCサクセションやシーナ&ロケッツ、それとなぜか今流行りのシティポップの時代が来て。個人的には矢沢のエーちゃんに興味を持ち、当時発売された『PM9』をよく聴いていた。そういった色々の背後に西武やパルコのコピーライター(に脚光を浴びせた)の糸井重里さんがいて。

文庫本(小説)読む人に憧れて『成りあがり』や『蒼い時』(タレント本~) や、当時流行ってた片岡義男さんの角川文庫(流行りモノ~) 本読んだりして ( 今回『悔いあらためて』を久々に読んで糸井さんと橋本さん、片岡義男さんを思いっきりディスってたのが意外だった😂)

そんでもうちょいレベルアップせにゃと選んだのが『僕って何』( 三田誠広、の、芥川賞作品、が、河出文庫になった時代 )『光匂い満ちてよ』( 立松和平 ) など、全共闘を直で題材にしてる作品だったり、中上健次とかね。 村上春樹さんはまだデビューしたばっかで『風の歌を聴け』からの鼠三部作 (はひねったやつだし ) とかで、その時代 (ゲバルトの杜 ! ) をくっきり感じさせるのは『ノルウェイの森』まで待たなければ…

そんな話はまぁいっか。

糸井さんなぁ…リベラルが平気でぶっ叩くけども公人でもないし(公人なんだろうか ? ) 悪いことをしてるだろうか。発言 ? それ知り合いだったらそんなに言うだろうかって思う。単純に。誹謗中傷。

糸井さんを好きになったのは、FMラジオで「YMO」の特集やってて、3人それぞれにインタビューしてたときの声とかトーン、最初はそういうものだったと思う。


その時は何も知らないが、全共闘や過激派やってたお兄さんお姉さん世代と、そこで再会したということなんだね。

NHK 教育テレビで土曜日の夜にやっていた『YOU』で糸井さんを決定的に好きになり、その後は「萬流コピー塾」が載っている『週刊文春』を毎週買って、気まぐれに何度か投稿してみたり、常連の高段位?の方から今でいうZINE みたいの買って ? ( 経緯とか忘れちゃうね ) 


今は皆『ほぼ日』の人になってるのかなぁ


糸井さんが毎月のように登場していた『広告批評』を楽しみにしてた。


こんなマジな人もいるんだって泣けた


1986年 12月、ビートたけしが軍団をひき連れて「フライデー襲撃事件」を起こした直後、厳しい批判にさらされている中「この女に石を投げられる者は、投げなさい。」という文章を寄稿して、たけしを擁護した ( のがとても知的な大人に思えた )

そうしてますますファンになっていき『萬流コピー塾』連載終了の際に催されたイベントに出かけて初めてお会いすることができた(もはや遠い思い出だけども)


「最後だと来てくれるんだよなぁ」
( 糸井さんはそう言った )


糸井さんがよく表れてると思ったのは『85点の言葉』という本で (文藝春秋 ? ネスコ ?  発掘できないや ) 確か「コピー塾」の連載をまとめた最後のやつで、挟み込まれたコラムが糸井さんのコミュニケーション論になってて。

いわく、口を強くしてもダメ。大きな耳を持て。キャッチャーミットの耳で受けろ。要するに聴け ! ということを言っていた ( コーチングの先駆けじゃんね ! )



橋本治さん。は、やはり『広告批評』( 1989年 11月号 ) の特集「がんばれ、おたく!」が凄かった。強烈だった。宮崎勤の事件があって、「六千本のビデオテープ」の部屋が映し出され、「おたく」や「アニメ」が問題視されるような状況になったときに出たやつ。


発売日が待ち遠しかった頃


窓の外にたなびいているのは、私が自分で洗ったマクラカバーとベッドシーツである。その手前にある金属製のボールで、私は手洗いをしていた。私はとんでもなく生産性の高い人間なのであって…


「あなたは多分、十九の年にはもっとまともな文章を書けたと思いますよ。それが、時が経つに従って退化したんですね。『十九の自分が今の自分を見たらどう思うだろう?』というのは、自分を考える一つの方法ですから、そんなこともちょっと考えてみて下さい。」



当時っから知の巨人だったわけよ。
大人になること、男になること、
(手)仕事すること、生産すること、
橋本治さんは、教えてくれた。



『帰ってきた橋本治 展』で
ご家族から頂いた形見分け

「わたしはサディズムの根本を支えるものは『教育』であって、『一方的に知らされてしまったものがまだ知らないままでいるものに対して教える』というプロセスが『虐待』となって現れるんだと思ってます。」


※ あらためて読んでも刺さりまくる。

わたしにとっての橋本治さんは、作家、小説家というより『人生相談』『恋愛論』『男になるのだ』とか、大人になること、男になること、生きること、を教えてくれる先生、いや、何者にも形容できない特別な人だった。


一生モノのバイブル✨


橋本治さんがいなかったら、今のような人生には絶対にならなかった ( こんなんでもね )


自分を受け入れて、自分の言葉を喋りなさいって一生懸命ボクらネクラを優しく叱咤激励してくれてた。糸井さんも、橋本さんも。

『ハイライト』いいんだよな~♪


「たとえば作文を書かせると『ニーチェいわく』で始められるんです。『キルケゴールが言った』自分で言ってるんではないんです。『キルケゴールが言った』というとその一言がずいぶん立派にみえて-自分が言ったんじゃないんだけども-それを見つけてきた自分も言ってるように感じる。そういうテクニックを覚えるわけです。」

「『おまえ、自分の言葉で喋れよ』というふうに学生時代にもし注意されたら、その注意してくれた人は非常にいい人だと思います ( 中略 ) そうやって自分が他人である時期なんです、青年という時期は。」

「まとめると『青年はバカでスケベで役立たずで臆病で何も知らなくてケチである』(中略)こういう結論です。これは仕様がない。僕もそうだった。(中略)どうやれば青年のくだらなさから抜けでられるかというと、青年をやめればいいんです。」

「青年をやめようと思わなければどうなるかというと-どうなると思いますか-バカでスケベで役立たずで臆病な青年をやめなかった人たちというのはいるんです。それが正直申しまして、ここにいらっしゃる方は別として、いまのほとんどの大人です
(-群馬県立前橋高等学校 蛟龍祭-「知的にWild 、過激にIntelligent」糸井重里 講演会『萬流通信九月号』より引用しました)

抜き出して書いたから冷たく感じるかもだけど、笑わせつつ、受け入れやすく、でもガチに本気で、若い知性に大切なことを伝えようとする糸井さん ( 当時40代 ? ) の様子が伝わってきますよ。

あ~ やっぱどう考えたって、『糸井重里、「青年時代」を語る』と題して、そのとき言ってた「ほとんどの大人」だけども ( 糸井さん追っかけるの止めてしまった人生…) それでも…

青年は、バカでスケベで臆病だけれど、好きになる人は ( 大体は ) 間違えないと思う。

年をとって、人を愛するパワーが足りなくなった。というわけで、糸井重里さんや橋本治さんについて書いてみました。愛した人たち。

やっぱ悪いことしてるのがまかり通ってはダメだ。

大丈夫だよ、明日には蓮舫さんが勝利してるから。

ニノが上手いやつ貼って終わります♪


読んでくれてありがとうございました🙇‍♀️
( 熱中症に気をつけてくださいね☀️)



おまけ。

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