怒らない、かといって褒めるわけでもない
いまって基本的に、「体罰」とか「厳しく叱る」とかってことが、ナンセンスとされる時代ですよね。
それよりも「褒めて伸ばす」ことが、良しとされています。
個人的にも、上司や先生から頭を叩かれたり、キツキツに締め付けられたりするようなことは想像する限りあんまりいい気持ちがしないので(中高に所属してた野球部でも、幸運なことにぼくがお世話になった先生たちは、体罰をしなかったです。他の学校の野球部の人たち、話聞いたらみんな思いっきり叩かれたり蹴られたりしてたけど)、いまの「褒めて伸ばそう」的な風潮自体は、まあいいかなと思っています。
ただ、先日『"ほめすぎ"も考えもの』ってnoteを読みました。
理由を本文中から引用すると、
これまで「上手い」と言われ続けてきたのに
もしも出来なかったらどうしよう…と不安を抱えてしまいます。
実際に気持ちを聞いたところ
「出来なくて当たり前」を経験した事が無く
失敗を恐れ、傷つくことへの恐怖心が生まれたそうです。
とのこと。
たしかに、ぼくはじぶんの子どもがいないので、あくまでも人から聞いた話だったり、本で読んだりした情報ですけど、子ども(時代)ってやっぱり、大人(特に親)から褒められることが、一番うれしいのかもしれません。
そういった前提で、スタートの反応が「賞賛」だと、どうにかしてその「賞賛」を維持しようとして、できるかできないか微妙なことに挑戦する気持ちを小さくなってしまうという理屈を読んで、たしかになと思いました。
それで、この松永さんのnoteを読んだとき、『嫌われる勇気』という本に書いてあった「怒っても褒めてもいけない」という話を思い出しました。
細かくは忘れてしまったのですが、大前提として「怒ること」に対して、本中では「感情」ではなくて「相手を威圧するための、コントロール可能な手段」だというスタンスをとるので、昨今の風潮通り、怒ることはナンセンス。
一方で、ではなぜ「褒めてはいけない」のかというと、結局褒めるってことはそこに「褒める人」と「褒められる人」の上下関係を生み出して、そして褒められた人は、(じぶんのためではなく)褒める人に再び褒められるための行動をとるようになるからです。
言い換えると、その人の価値基準が「じぶん」ではなく「他人(≒褒めてくれる人)」になってしまうということ。
そして、特にじぶんの価値基準がまだそれほどできあがっていない子どもにとって、「褒める」ことは「価値基準を自分のなかではなく他人のなかに作ってしまうかもしれない」という影響が顕著になります。
だから、最近よく言われる「褒めて伸ばす」も、短期的に見ればその子のやる気を引き出すなどのメリットが大きいのかもしれないですけど、中長期的に見たときには、本当にその子のためになっているのか、慎重に考える必要があるなと。
あと最後にちょっと脱線しますけど、この松永さんのnoteを読んだとき、「嫌われる勇気」とは別で、野村克也さんの「三流は無視・二流は賞賛・一流は非難」という言葉も思い出しました。
要は、「指導者は、相手の段階に応じて接する態度を変えろ」という話なのですが、野村さんのこの持論も、イメージできるといえばできるので、一理あるなという思いもあります。
まあ結局、結論はすんごいふんわりした感じになってしまいますけど、教育、というかコミュニケーションに絶対の答えはありません。
褒めることも叱ることも(あと無視することも)、観点を変えることによって良いことも悪いこともあるので、どういった接し方が絶対的に正解とか逆に不正解とかって、ないのだと思います。
常に試行錯誤し続けて、その場その場での最善(だと思う)対応をすることが大事なのだなと、改めて感じたという話でした。
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