「共感」の功罪
『共感』という言葉が、なんとなくキライでした。
ただ『なんとなくキライ』は感情のベクトルが違うだけで、本質的には『共感する』と同じで、これはすさまじいブーメランです。
なので、去年の後半くらいからずっと『共感』について考えていて、12月にはこんなnoteも書きました。
ただ、まだまだ『なんとなくキライ』の解明は道半ばで、いまでも折に触れて『共感』について考えています。
そんななか、今回読んだ『天才を殺す凡人』は、ぼくが『共感』に抱いていた嫌悪感をすごく言語化してくれていて、かなりうっぷんが晴れました。
(ここから先の感想はあくまでもぼくの解釈で、著者の北野さんの意図した内容とはズレてる可能性があります!)
『天才を殺す凡人』は、『凡人が、天才を殺すことがある理由。』というめちゃくちゃバズったブログが元になっています。
公開された当時ぼくも読んで、『うぉー!天才を守りてぇー!』と興奮しました。
この話は、世の中の人を『天才』『秀才』『凡人』の3種類に分けることから始まります。
ただ、1人につき1タイプというわけではなく、実は1人のなかに3タイプとも存在しています。
それらの関係性はグラデーションでしかなく、状況に合わせて使い分けたり、組み合わせたりするのです。
本著より引用
ただまあ、逆に言えばグラデーションはあるので、人それぞれ『強いて言うならこのタイプに近いよね』っていうのはあります。
そして、それぞれのタイプは『ものごとにおいて重視すること』も違っていて、『天才=創造性』『秀才=再現性』『凡人=共感性』です。
本著より引用
この図を貼ったところで、もう言ってしまうと『ぼくは秀才の要素が大きいから、”共感”という単語に引っかかっていたんだな』と思いました。
謙遜して『自分は凡人です』って言うのは簡単なんですけど、この本の目的は副題『職場の人間関係に悩む、すべての人へ』にもある通り、それぞれの人が自分と他者を的確に分析して、スムーズなコミュニケーションを取ることです。
なので、そもそも『秀才』が自慢になるのかすらよく分からないんですけど、一旦ぼくは『秀才』ということで話を進めます。
『秀才』はなぜ『共感』が気に食わないのか?
結論からいうと『ロジックがないように見えるから』です。
『共感』とは『なんとなくスキ』のこと。
そして、この『なんとなく』の正体は『自分自身の感性』ではなく、往々にして『他の人もそうだから』です。
他の人も賛成しているから、自分も『なんとなく』賛成にしておこう。
他の人も買ってるから、自分も『なんとなく』これにしておこう。
これに対して『再現性≒論理性』を重視する秀才は、『他者と自分は別物なんだから、他の人の動向は理由にはならないだろ!=論理性がないだろ!』と憤ります。
この理由を本で読んだとき、ぼくの共感アレルギーの正体はこれだったのか!と、まさに目からうろこでした。
ただ、じゃあ『共感』に価値がないのかと言えば、そういうことでは全くなくて、本中には『売れているものは、売れているというだけで、その価値を証明できている』と書いてあって、たしかにそうだなあと思いました。
『共感されるもの』は強いけど『共感による意思決定』は危うい
ということで、秀才にとってパッと見ではその価値を理解しづらい『共感』にも、れっきとした価値があります。
ただ、『使いどころ』には注意すべきです。
本中で
『共感されるものは強い』。でも『共感による意思決定は危うい』
という箇所があって、ここも印象に残りました。
これについて、あえて極端に言えば『共感されるのはいいけど、共感するのは慎重に』ということです。
共感の根本は理由のない『なんとなく』であることが多いので、実は危ないものだったり、損するものであったとしても、見逃してしまう可能性が高いのです。
これだけ聞くとなんとも都合のいい『共感』の活用方法ですが、『自分と同じくらい相手も共感に慎重だ』と想定すれば、共感してもらおうと思ったときにそれだけ相手への配慮の気持ちが増すので、それはそれで悪くないんじゃないでしょうか。
ということで、今日のまとめとしては『再現性≒論理性』を重視する秀才からすれば、それが一見なさそうな『共感』には嫌悪感を抱く。
ただ、『共感』にもそれはそれで大きな価値がある。
なので、その価値を悪用しようとする『共感』の仮面をかぶった『欺瞞』には騙されないよう、自身が『共感する側』のときは慎重になろう!です。