本「能」寺の戦い
大河ドラマ「麒麟がくる」も今晩が最終回。どのような「本能寺の変」が描かれるのか楽しみです。
ところでこの「本能寺」今も京都に現存するお寺なのですが、今在る本能寺は信長時代の本能寺とは建物はおろか、場所も異なっていることをご存知でしょうか。
本「能」寺の歴史
現在の本能寺は、鴨川に近く京都市役所付近に立地しているのですが、信長時代も含め、もともと本能寺は、現在の本能寺から約2.5km西・堀川通り近く在りました。
本能寺は、室町時代前期の「応永」年間に建立された古い寺院で、もともと、本能寺の「能」の時は、"ヒ"が2つではなく、"去"だったそうです。
応永年間:1394年から1428年の35年間続いた。元号としての長さは歴代三番目に長く、明治までは、日本最長の元号だった。(最も長いのはご承知の通り「昭和」)常に戦乱が絶えない不安定な中世年間の中で、特に足利義満が存命だった時代は戦乱が治り、「応永の平和」と称される
これは、建立から現在まで、五度の火災に見舞われており、火災が続くのは、能の字は「ヒ」が続くからだと考えられ、火が去るようにという意味で字が代わりにあてられたそうです(諸説あり)。
本能寺御池門に立つ石碑。「能」の字が異なる。
信長と本能寺
本能寺の変があったため、本能寺は信長の京における定宿のイメージがありますが、実は、信長は生涯、本能寺に宿泊した回数は数回程度で、圧倒的に宿泊回数が多かったのが、近くに在った「妙覚寺」でした。
では何故、本能寺の変の当日=天正十年(1582) 六月二日、信長は定宿である妙覚寺ではなく、本能寺を宿所としていたのか?
それは、信長の長男で、当時の織田家の当主=「織田信忠」も同じ日に京にいたからです。(この時点で、信長は織田家の家督を信忠に譲っていました)
そのため、妙覚寺は当主である信忠が使用することとなり、信長は、本能寺に滞在することとなり、改名虚しく、本能寺は、また焼失することとなります。
織田信忠。本能寺の変の六年前に、織田家の次期当主として、信長より家督を譲られていた。
現在の本能寺
では、現在、もともと「本能寺」が在った場所はどうなっているのでしょうか?
現在、本能寺が在ったとされる一角には、「京都市消防局 本能分団」があります。
今も、かつての本能寺の在った地は、「火」と戦っているのですね。
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