贅沢な映画―アサイヤスのHors du tempsを見て―
昨日オリヴィエ・アサイヤスの新作の"Hors du temps"っての見てきました。作り手のやりたいほうだいという意味で贅沢な映画でした。4年前のコロナ禍で外出禁止(confinement)の時の自身の体験を—育った田舎の家で弟と過ごすーベースに作っているようですが、最初の5分ぐらい、スナップショットよろしく田舎のじぶんち、隣の家、近所の家々を固定ショットで映し、(後からわかるのですが)彼のヴォイスオフの声で、くぐもった声なので聞きづらい声で近所の風景を延々と解説を続ける。そのあとは幽閉生活をエリック・ロメールの映画ぽい感じで半ば棒読み、半ば感情が入ってるって感じで延々と会話、会話の連続。
でもそこで考えさせられたのは、「映画」を観ようと映画館やコンピュータの画面に直面してする時って僕らは何がどう最初映るか、例えばオープニングロール、事件の発端、ロングショットで雰囲気づくりなどを漠然と予想しているし、またそのあと人が殺されたら刑事ものあるいは裁判もの、男女がチューしていたら恋愛ものとかジャンルを了解するという予見が実はあるんですよね。だからこの映画のただ映ししゃべるってのには肩透かしを食らった感じ。
この僕らの予見を逆手にとって利用し、でも見事に裏切るのがアカデミー賞にたくさんノミネートされ、いくつか受賞し話題になった『関心領域』だと思うのですが、この”Hors du Temps”は正直言ってそのようなたくらみよりも作り手の甘えのようなものが感じられました。映画慣れしていない人だと、最初の連続した固定ショットにナレーションはハテナの連続だし、兄弟の痴話喧嘩のようなものが延々と続いても仲たがい、絶交、もしくは和解という期待してもいいドラマが全くなく、結局何が言いたいの?って怒鳴ってもいい感じなんですよ。
でも面白い。出演者は10年前ぐらいに演劇界の天才とか救世主とか言われ現われたVincent Macaigneとこれまた舞台で活躍しているMicha Lescotっていかにもフランスの優男で口だけで体力がない色男。この二人とその恋人たちがとぼけたり、インテリぶったり、要するにパリの人が延々としゃべっていたり、昼間は古ぼけたテニスコートでヘッタクソなテニスしたり、ご飯食べたり。それだけ。
でもフランスの素朴な田舎―と言ってもパリの中心から35㎞にあるMontabéって町で、東京で言えば立川ぐらいのところ―はバルビゾン派だのあるいはルノワールのLe déjeuner sur l'herbeを連想するぐらいで目の保養になるし、会話は楽しいし...(幽閉されているからか、もはや偏執的に見えるぐらい弟が作るスーパーの大したことない材料のクレープが妙に食べてみたくなるし)
Olivier Assayasに関してはもともと僕は両義的で、最初に話題になり、恋人でその後奥さんになったMaggy Cheung主演のIrma Vepp(1996)は不思議で愉快だったのですが、再びだけど離婚したあとのMaggy Cheung主演でアメリカの個性派Nick Nolteも出ていて、Maggy Cheungがカンヌで主演女優賞もらったClean(2004)ってやつはどうも映画以上の芸術作品を作りたいって意図があるような気がしちゃってね。その後はたぶん一作ぐらいしか見ていない。
彼の作品を好きになるかと言うとならないと思うんですが、このいささかself-indulgentな作品はそこそこ面白く、なにより売る戦略を考えていない、つまり商品という意識を持たないで作ったんだろうなぁ、いやぁ、ぜいたくな作品が作れるフランスもまだ捨てたもんじゃないと思いました。