見出し画像

阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)

この記事は2021年4月にMediumにて掲載した記事です。

先日,4月3日に21歳の誕生日を迎えた.僭越ながら,これからの抱負を含め,少し記したいと思う.

以前,友人から,二十歳になって変化したことを聞かれたことがあった.自分にとって最も大きな変化は,僧侶・宗教家として生きる覚悟ができたことであろう.
それはつまり,自分の「あるべき姿」を受け入れたことに他ならない.

タイトルの「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」とは,明恵上人の以下の言葉からである.
「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり.
僧は僧のあるべき様,俗は俗のあるべき様なり.乃至帝王は帝王のあるべき様,臣下は臣下のあるべき様,此のあるべき様を背く故に,一切悪しきなり.」

つまり,俗世界の人間が,皇族と同じ生活をするわけにはいかないし,また皇族も俗世界の生活はできないのである.それは,何も皇族と俗世界という関係だけに限った話ではない.人は皆それぞれ,天から与えられた本分がある.実際,政治のプロでも,外交のプロでもない軍人が,それらに口出しするようになったことも,戦争に突き進んだ要因の一つであることは違いないだろう.

では,自分の「あるべきよう」とは何かについて,述べたいと思う.

私は,奈良の大仏で有名な華厳宗・東大寺の末寺の長男として生まれた.そして,16歳の時に東大寺で得度した.ただ,得度したとは言っても,まだ僧侶として生きていくことなど考えてもいなかった.信西が詠んだように「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのことで心まで染めるつもりはない)」という気持ちであった.この東大寺の存在が,自分の「あるべきよう」を知る上で重要な存在となる.

ここで,東大寺の成り立ちについて振り返ってみる.聖武天皇は東大寺の前身である金鐘山寺において,新羅の僧,審祥に「華厳経」を講義させた.この審祥の講義を聴聞した聖武天皇は「華厳経」のシンボルとしての大仏建立を発願したのである.アジアとの結びつきは後ほど触れるが,大仏開眼供養の導師はインド僧,講義をしたのは新羅人の審祥,建立に参画した玄昉その他も朝鮮半島系の血を受けており,そもそも華厳経を持ってきたのは,漢族の道璿である.当時の日本はじつに国際色豊かで,大仏建立には日本だけでなく,アジア全体の力を借りて成し遂げられたことがわかる.

では,なぜ聖武天皇がここまでの一大プロジェクトを行おうとしたのか.一般的に権力者が大きな像を建立したりする場合,その動機は自分の権力を示すためというものが多いだろう.しかし,聖武天皇の動機は決してそのようなものではなかった.それには,当時の状況を振り返る必要がある.聖武天皇が即位していた時期は,旱魃,飢饉,天然痘,地震,そして皇太子の死といったことが相次いで起こった.このようなことに対して,聖武天皇は「責めは予一人に在り」と言ったのだ.このような天災も全て,自分の治世が悪いから起っているとして,責任を感じていたことがわかる.聖武天皇の詔には詳細な思いが示されているが,それについては後日,別に書くこととする.
そして,大仏建立後,天然痘も急速に収束していき,太平安穏な時代を迎えることとなった.それから時が過ぎ,奈良時代最後の天皇である光仁天皇の頃になると,また天変地異が起こり始めるようになる.この時,光仁天皇が出された詔には,「よく顧みれば,朕の不徳の致すところかもしれないが,その責任は仏教界にもあると思う.聞くところによると,僧侶らは俗界の人々と何ら異なることのない生活をしている.僧侶が自らを律しなければ誰が律するであろうか.」と,仏教界を痛烈に批判している.従来,天変地異が起こったときには,まず天皇が自らの不徳を恥じ,ひたすら仏門にすがるというのが通例であった.この詔にみられるような仏教界に対する批判的な姿勢は初めてのことである.それだけ,仏教界が乱れていたのであろう.

そうすると,当時の天変地異の状況と,現在のCOVID-19の蔓延,地震などの災害を重ねてしまいたくなるのは僕だけであろうか.
実際,現在の僧侶の多くは俗界の人々と同じような生活を送っているのではないだろうか.とすれば,現在の状況は政を行なっている政治家などにも大きな責任はあるだろうが,仏教界にもその責任の一端があることは認めざるを得ないと思う.やはり僧は僧のあるべき様を保つことが重要なのだ.

つまり,自分の「あるべきよう」とは,聖武天皇と光仁天皇が示されたように,僧侶として自分を律して生きることなのだと思う.

私は福岡が地元ということもあり,10代の頃は自由民権運動に端を発した玄洋社の大アジア主義に傾倒していた.大アジア主義というと,大東亜共栄圏を想像する人もいるだろうが,この二つはまるで別物だということをご理解いただきたい.例えば,福澤諭吉先生が「脱亜論」を説いたのに対し,玄洋社はアジア諸民族が平等な立場で連帯して発展すべきだとする「興亜論」を説いた.つまり,朝鮮や台湾を植民地化するのではなくて,国と国を横の関係を通して深く結びつけ西欧に対抗するというものであった.そして,この大アジア主義というのは本来,単なる政治的思想ではなく,哲学,宗教,芸術によって裏打ちされた共存の哲学なのである.実際,玄洋社の中心人物である頭山満の近くにいたのが,アブデュルレシト・イブラヒムという,後述する井筒俊彦氏とイスラーム世界を繋いだ人物である.また,この大アジア主義の意味するアジアの範囲はギリシャ辺りから,アラブ地域までも包括するものであった.

では,この井筒俊彦氏とはどういった人物なのか.井筒氏は30以上の言語を自在に操れる人物であった.また「東と西との生きた思想的対話の場を作り出すことができたなら」と願い続けていた.それは現在,科学は一つの文化や文明に属しているわけではない.科学には国境というものが存在しない.それであれば,哲学もそのようになれるのではないか.そういう思いだったのだろう.また井筒氏はギリシャを含むギリシャ以東を東洋だとした.これは,大アジア主義のアジアの範囲と非常に近い.その中で,東洋の哲学という一本の筋を通そうと試みた人物であった.この井筒氏の著書と出会い,私のアイデンティティの一つである,華厳哲学がこの東洋思想をまとめる上で非常に重要なファクターになり得る可能性を見出すことができたのである.

華厳哲学の大きな特徴は「事事無礙」と呼ばれる,経験的世界のありとあらゆる事物,事象が互いに滲透し合い,相即渾融するという存在論的思想である.これは華厳あるいは中国仏教だけに限らず,世界の多くの哲学者らの思想において重要な役割を果たしてきた普遍的パラダイムである.後期ギリシャ,新プラトン主義の始祖であるプロティノスの脱我的存在ビジョン,また西洋近世のライプニッツのモナドロギーなど東西の別を超えて顕著な例を見出すことができる.その中でも,プロティノスの「エンネアデス」と「華厳経」の異常なまでの類似はこれまでも指摘されてきた通りである.ここで,参考までにその例を示しておく.

「あちらでは,すべてが透明で,暗い翳りはどこにもなく,遮るものは何一つない.あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ.光が光を貫流する.ひとつ一つのものが,どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており,同時に一切のものを,他者のひとつ一つの中に見る.だから,至るところに一切があり,一切が一切であり,ひとつ一つのものが,即,一切なのであって,燦然たるその光輝は際涯を知らぬ.ここでは,小・即・大である故に,すべてのものが巨大だ.太陽がそのまますべての星々であり,ひとつ一つの星,それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら),しかもすべてが互いに他のなかに映現している」

Plotini Opera Ⅱ, ed. P. Henry et H.-R. Schwyzer, Paris, p.384

すべてのものが「透明」となり「光」と化して,経験的世界における事物特有の相互障礙性を失い,互いに他に滲透し,互いに他を映し合いながら,相入相即し渾融する.重々無尽に交錯する光に荘厳されて,燦爛と現成する世界.これこそ,まさに華厳の世界,海印三昧と呼ばれる禅定意識に現れる蓮華蔵世界海そのものの光景であろう.

では,この華厳とプロティノスの著しい類似はどこからきたのか.学者の一部には,プロティノスが華厳を直接的に知っていて,その影響を受けたのではないかとする人もいるらしい.というのも,プロティノスがインドの宗教・哲学に対して憧憬に近い関心を抱いていたことは周知の事実であり,彼がアレクサンドリア及びローマで活躍していた西暦三世紀頃はインドにおける大乗仏教の興隆期であったことも全く無関係とは言えないだろう.またその頃の地中海の大国際都市アレクサンドリアには,既に相当有力な仏教コミュニティが存在していたらしいとのことで,あれほどインドに烈しく惹かれていたプロティノスがアレクサンドリアで10年間程暮らしていた間に彼らに接触していなかったはずはないだろう.

また,引用した「エンネアデス」の一節は終始一貫して「光」のメタファの織り出すテクストだった.「華厳経」も隅から隅まで「光」のメタファの限りない連鎖,限りない交錯,限りない重層の作りなす盛観である.

この「光」の世界全体の中心点が眩いばかりに光り輝く毘盧舎那仏であることに注目したい.「毘盧舎那仏」,原語はヴァイローチャナ,語源は「燦然と輝く」といい,万物を遍照する太陽,「光明遍照」,「光の仏」を意味する.華厳的世界の原点,「華厳経」の教主が,このように根源的「光」の人格化としての太陽仏であるという事実になんとなくペルシャ的なものを感じる.ゾロアスター教の「光」の神.アフラ・マズダの揺曳する面影を重ねてしまうのだ.

古代イランの「光」の宗教が,華厳の存在感覚の形成に影響したのではないかという妄想に駆られてしまう.またこれが,全く無意味な妄想だと切り捨てられない面もある.

「華厳経」が編纂されたのは西北インドあるいは西域においてであり,特に于闐(ホータン,Khotan)が,この大事業の中心地だったと言われている.いずれにしても,この地域はギリシャ文化とイラン文化との交流するところであり,西域は特にその全体がイラン文化の圧倒的支配圏であった.ここにおいて華厳がゾロアスター教と親密な関係に入ったとしても何の不思議もないのである.

さらに,華厳宗の第三祖である法蔵は,華厳哲学の大成者であり,まぎれもない中国の思想家ではあるが,始祖の杜順,第二祖の智儼が漢民族であるのに対し,ソグド人なのである.古代イラン文化のこころが色濃い血となって流れていたのであろう.そうであれば,「華厳経」の「光」の世界像に対する彼のあの異常な傾倒をゾロアスター教的「光」の情熱の密かな薫習に結びつけて考えることも,あながち荒唐無稽な想像ではないだろう.また,プロティノスが華厳の影響を受けていたことが本当だとすれば,華厳はプロティノスを通して,イスラーム哲学にも,中世ユダヤ哲学にも,初期キリスト教にも深く関わってくることになる.イスラーム哲学,特にスーフィズムはプロティノスの強い影響の下に発展した思想潮流であり,タルムード期以後のユダヤ哲学の史的展開もまた,プロティノスを抜きにして考えることはできない.ユダヤ教神秘主義の主流をなすカッバーラーなどに至っては,それの基礎経典である「ゾーハルの書」の「ゾーハル」が元々「光暉」を意味する語であることからも分かる通り,根本的に「光」のメタファの形而上的展開である.初期キリスト教のアウグスティヌスもプロティノスの影響を相当受けていたとされており,その後,キリスト教神学に取り入れられた.

華厳の「事事無礙」的思想を一つの普遍的思惟パラダイムと考えるならば,それが東西の哲学の至るところ,歴史的に何の親縁関係のないところまで,様々な形を取って現れてくる.それだけでなく,史的親縁性の複雑に錯綜する網が,それこそ重々無尽の「事事無礙」的に張り巡らされているのではないだろうか.

そうであるなら,私の役割は華厳の「事事無礙」的思想をもとに, 茫洋たる大海のごとく涯なく広い東洋思想に一つの筋を通した上で,東西の別なく一つの哲学を構築していくことではなかろうか.また,文献学的な方法だけでなく分析哲学などの方法も併せて用いたいと思っている.その上で,戦争哲学等まで幅広く扱いたい.

となると,自分がこれからやらねばならないことは,自然と見えてくる.一つは,僧侶としての仏法修行である.こういった東洋の修行体験と古代ギリシャのVita Contemplativaとの類似性も特筆に値するだろう.Vita Contemplativa,今の研究者の主流な訳は「観照的生活」であろうか.ただ井筒氏は「脱自的体験」と訳した.脱自的体験とは,身体から魂が抜け出すような脱自的な瞑想的体験のこと.プラトンが哲人政治を理想として挙げたのも,このVita Contemplativaにより,理性の光を当てて物事を見ることができる力を持っていると考えられたからである.つまり,学問に励むだけでなく,併せて修行も行わなければならないのだ.

では,もう一方の学問はどのようにやっていくのか.仏教や華厳哲学の専門書を読むというわけではない.まずは,哲学における基礎訓練である,語学や論理学にじっくり取り組みたい.昨年はその一環としてフランス語を徹底的に訓練した.ロシア語,スペイン語にも触れた.しかし,まだまだ取り組まなければならない言語は多い.古代ギリシャ語,ラテン語,サンクスリット語,パーリ語,聖書ヘブライ語,ペルシャ語,アラビア語,ドイツ語ととにかく多い.これらの語学を涵養しつつ,数理論理学にも取り組む.さらに,四書五経をはじめとする和漢の書を読み,古代ギリシャ哲学やキリスト教神学についても少しずつ触れていきたい.

奈良の古寺は,当時最先端の学問であった仏教哲学を学ぶ場所であった.古代ギリシャでいうところのアカデメイアにあたるものである.また同時に,全ての生命の繁栄を願う場所でもある.

頭山の生き方の根本をなす「殺身成仁(身を殺して仁を成す)」の気概もまた,お釈迦さまが衆生のために自らの身命を軽んじたこととも非常に近い.

やはり自分自身もそうでありたいと思う.

最初に出てきた,明恵上人の伝記には,「仏法修行はけぎたなき心あるまじきなり.武士などはけぎたなき振舞しては,生きても何かせん」とある.

いい加減な生き方をしていては,生きていても意味がないという意味である.自分のあるべきようをしっかり見つめ,天子様に恥じることのないように生きたい.

頭山満は,「一人でも寂しくない人間になれ」とよく言っていたらしい.それは単純に「孤独に打ち勝て」ということではなく,一人ひとりが自らの内部から「光」を発せよ,という意味だったとのこと.ここでも「光」のメタファが出てくるように,華厳経の毘盧舎那仏のように自ら光を発する人間になって,一切衆生を導けるような存在になりたい

いいなと思ったら応援しよう!