慧雲

眞龍雲寺 副住職。 Z世代の祈祷師。 令和五年東大寺修二会 小院士。

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阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)

先日,4月3日に21歳の誕生日を迎えた.僭越ながら,これからの抱負を含め,少し記したいと思う. 以前,友人から,二十歳になって変化したことを聞かれたことがあった.自分にとって最も大きな変化は,僧侶・宗教家として生きる覚悟ができたことであろう. それはつまり,自分の「あるべき姿」を受け入れたことに他ならない. タイトルの「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」とは,明恵上人の以下の言葉からである. 「人は阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり. 僧は僧の

    • 自省〜24歳の誕生日に寄せて〜

       本日、4月3日で24歳の誕生日を迎え、また一つ歳を頂くことができました。23歳の一年も多くの皆様に支えていただいたおかげであります。まずは、その皆様方に心より感謝申し上げます。  ただ、最も感謝しないといけないのは両親に対してですね。  という詠み人知らずの歌があります。  さらに「父母の恩重き事、天の極まりなきが如し」と『父母恩重経』に記されています。私が今、やりたいことができているのも、また何かを望めるのも、ここに命があるからこそ。生母が私を産んでなければ、今、何

      • 【新しい生活様式】

        この記事は、私が2020年の5月にFacebookに投稿した文章です。  生活様式というのは, 決して他人から人工的に与えられるものではなく, 我々が実生活を通じて引き受けるべきものである.  ヴィトゲンシュタインは「ライオンが話したとしても, 我々はライオンを理解できないであろう」と記している. それはまさに, ライオンと我々とでは生活様式が全く異なるからである. 言語というものは, その生活様式を反映しながら発達してきた. だからこそ, 「ある言語を想像すること

        • 山笠の創始者は東大寺の大勧進職!?

           福岡の七月は、山笠という呼び名で知られる「博多祇園山笠」の熱気に包まれる。  この「博多祇園山笠」は、その名前の通り、祇園祭の一つで、博多の総鎮守である櫛田神社に「山笠」と呼ばれる作り山を奉納する神事である。  そもそも祇園祭は神仏習合の祭りで、祇園という名称も祇園精舎に由来する。祇園祭といえば、京都の祇園祭がその代表格であるが、明治の神仏分離令によって神道と仏教とが分けられる前までは「祇園御霊会」という名称であった。  この御霊とは、無実の罪などで政界で恨み死にした

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          生死の苦海と観音さんの救済

           以前、こちらの記事で「観音さんは「施無畏の聖者」と呼ばれてきた」と書いた。今回はこの施無畏の聖者である観音さんについて記したい。だが、その前に、仏教の基本的なところからおさらいする。  そもそも、仏教の出発点はペシミズムであると言って間違いはないだろう。それは、お釈迦さんの「四門出遊」の話からみてもわかるとおりである。つまり、我々は煩悩によって生死の苦海に沈淪しているのである。  このことを、譬喩(比喩)をもって説いているお経がある。  ここに出てくる旅人は、まさにこ

          生死の苦海と観音さんの救済

          お墓参りは先祖供養ではない!?

           先祖供養のためにすること、といって、皆さんが思い浮かべるのは何であろうか?「お墓参り」を思い浮かべる方も少なくないのではないだろうか。しかし本来、お墓参りに先祖供養の意味はない。先祖供養のために必要なのは、お墓参りよりも、仏壇に手を合わせることである。そもそも、お墓と仏壇とでは、仏壇の方がはるかに歴史が古い。  仏壇は、天武天皇が「それぞれの家毎に仏舎(ほとけのみや)を作り、即ち仏像と経とを置きて礼拝供養せよ」との詔を出したことに始まる。  なぜこのような詔を出したかと

          お墓参りは先祖供養ではない!?

          お布施

          「お布施」と聞くと、何を思い浮かべるであろうか。葬儀などの法事の際に僧侶に包むもの、という認識の人も多いのではないだろうか。もちろん、それも間違ってはいない。ただ、「お布施」は単に法事のサービス料金というわけではない。  そもそも、布施とは、人にものを恵むこと、である。物質的にも精神的にも全てにおいて、「恵まれている人」というのは決して多くはない。その人の恵まれないものを恵んでやることが、本当の布施なのである。  布施というのは「布を施す」ということで、「布施」というよう

          お布施

          「海ゆかば」と「奈良の大仏」

           「海ゆかば」を作曲したのは、慶應義塾の塾歌を作曲したことでも知られる、信時潔である。この歌は戦時中までは準国家のような位置付けであり、戦時中に大本営発表において玉砕を報じる際の冒頭曲として流れていた。そのため、軍歌としてご存知の方も多いのではないだろうか。しかし、鎮魂歌として歌われる場合もあった。1982年に薬師寺の高田好胤師らが中国で戦没者慰霊法要を行なった際にも、「海ゆかば」を歌っている。 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへりみはせじ

          「海ゆかば」と「奈良の大仏」

          シルクロード貿易を支配したソグド商人

           こちらの記事でも出てきた、ソグド人について記してみたい。ただ、その前にシルクロード貿易についてご存知の方も多いと思うが、あらためて説明させていただく。  正倉院宝物を見ても分かるとおり、シルクロード貿易の本質は奢侈品である。重くてかさばる食糧や生活必需品の大量輸送が可能になるのは、「大航海時代」と呼ばれる海洋の時代まで待たねばならない。  内陸の輸送である、シルクロード貿易においては、時と場所によっては塩・穀物などの生活必需品の短距離輸送もあったが、基本的には軽くて貴重

          シルクロード貿易を支配したソグド商人

          黄砂 〜タクラマカン砂漠に想いを馳せて〜

           いよいよ、黄砂の季節になった。  黄砂の代表的な発生源といえば、「タクラマカン砂漠」であろう。  私には、この「タクラマカン砂漠」の縹渺たる砂の海に照りわたる太陽の光が、『華厳教』の本尊、盧舎那仏を「光」の源泉として形象させたように思える。  というのも『華厳経』が編纂されたのは西北インドあるいは西域においてであり、特に天山南路の仏教の拠点である、于闐(ホータン)が、『華厳経』編纂という一大事業の中心地だったのではないかといわれている。  いずれにしても、この地域は

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          未練

           今回の記事は、こちらの前回の記事の補足のようなものである。  SNSを自由に使うことができるホテル隔離より、SNSを含めた一般社会との繋がりを全て遮断される四度加行の方が孤独を感じずに済むとは、不思議に思う人も多いだろう。  しかし、これは恋愛にも似ているものがあると感じる。  というのも、恋愛だって、好きな人、愛する人が近くにいる状態で、その想いをなくす、消し去るのは非常に難しい。(両想いであれば、それで何も問題ないが片想いの場合は、、)  しかし、物理的にも精神

          修二会(お水取り)の事前隔離

           修二会の事前隔離について記したい。  私は昨年から修二会に参籠衆として籠もらせていただいている。昨年は仲間として、今年は小院士として参籠させていただいた。いずれもCOVID-19感染対策のため事前隔離が行われた。  本来、修二会は2月20日から別火に入り、3月1日から本行に入るという流れ(新入がある場合は2月15日から別火)だが、昨年は2週間の事前隔離、今年は10日間の事前隔離であった。遠方から参籠する場合や自宅隔離が厳しい場合は、ホテルで隔離生活に入る。私は遠方からの

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          我慢とは

           現代の日常においても、頻繁に使用される仏教用語に「我慢」というものがある。ただ、この「我慢」という本来の意味は、今日一般的に用いられている意味とはだいぶ違ったものである。今日では、「辛抱する」といったポジティブな意味で用いられているのではないだろうか。本来は、決してポジティブな意味ではない。好ましい意味の言葉ではないのである。  中村元(1975)によると、下記のように説明されている。 七慢というのは、下記の7つである。 劣った他人に対して自分が勝っているといい、等し

          我慢とは

          唯心−ヴィトゲンシュタインの独我論と仏教

          『華厳経』(十地品)の中に、「三界虚妄、但是一心作」という句が出てくる。これはどういう意味かというと、 存在世界は、隅から隅まで虚像であって、すべてはただ一つの心の作り出したもの ということである。  また、華厳宗でよく読誦される、『如心偈』の中にこのような句がある。 心造諸如来  読んで字の如く、心が諸々の如来をつくる、という意味である。  これらはいずれも、唯識派の根本テーゼである「万法唯識」の展開に過ぎないことはお分かりいただけるだろう。  哲学者、ルード

          唯心−ヴィトゲンシュタインの独我論と仏教

          花まつり

           本日、4月8日は毎年、全国各地の寺院で「花まつり」が行われる。  この「花まつり」は「灌仏会」や「降誕会」、「仏生会」とも呼ばれるもので、お釈迦さんの誕生を祝うものである。キリスト教でいうイエス・キリストの誕生を祝う「クリスマス」に該当するものと考えて差し支えないだろう。今年も多くの方が各地でお釈迦さんの誕生を祝ったのではないだろうか。  日本の「花まつり」はネパールおよびインド・西域で行われていた、行道と呼ばれる仏像や仏塔の周りを回りながら恭しく礼拝する供犠や、行像と

          花まつり

          身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ

          「無財の七施」の中に、「捨身施」というものがある。 他人のために働くことがそのまま自分の徳を積むというものである。仏教では、こと体得、体現ということを非常に重要視している。  「長恨歌」で有名な漢詩人、白楽天が杭州の刺吏となって来た時、鳥窠の道林禅師に「いったい仏法とはどんな教えか?」とたずねた。 その時、道林禅師は「諸悪莫作、衆善奉行」と答えた。すなわち、「悪いことは作さず、善いことを行うのだ」と。 白楽天は「なんだ、それが仏法か。そんなことなら3歳の童児も知ってる

          身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ