川越さんぽ!外伝!奥の脇道 泉福寺
以前 川越 中院の記事を載せたところ
リアル友達から 関東の天台宗は埼玉・桶川市にある
そのお寺の方が中院より格上だと言われて
優劣・格位とたか あまり気にしない僕なのですが
ちっとんべ~ 気になるじゃないですか💦
気になると 行きたくなるじゃないですか?
noteの記事にもなるし(ゲスな本音)
埼玉県道12号を栗橋方向に走り 川を
入間川!越辺川!荒川!と渡り 桶川市へ
優秀なカーナビに 導かれ
今日の川越さんぽ 外伝!は ココ!
本堂はお寺を覆う山林の中にあるらしく
ここの門の手前に車を停めて!
ここは参道?
「月日は百代の過客にして 行きかふ年も又旅人也」
奥の細道ぽくなって来た!僕は松尾芭蕉だ(笑)
少し歩いたら右側が開けて道の下に広い駐車場を発見!
慌てて戻り!車を駐車場へ
荒川の河川敷?崖の上にお寺があり
目の前は荒川を挟んでホンダエアポートが見えた
丁度!スカイダイビング中🪂パラシュートが判りますか?
崖の階段を上ると!
石柱に山号が
東叡山 勅願院 圓頓房 泉福寺
東叡山とは【関東の比叡山】と云う意味で
勅願院とは【天皇の勅願所】天皇の祈願に基づき建てられた寺社
圓頓房とは【学僧の養成道場】僧侶の学山である
泉福寺
829年 淳和天皇の勅願(ミコトノリ)によって
慈覚大師円仁が開山したもの・・ チト待て!
(円仁さん 中院を開山したのは830年だから
その1年前に ここを開山したって事?
どんだけ〜!な人なんだ💦)
大師は自らの手で
薬師如来!地蔵菩薩!阿弥陀如来!の三体の仏像を刻まれ
本尊として祀り 疫病除災等の祈願をされたと伝えられている
珍しい!
仁王様の石像門(江戸時代 作)がありました
阿形相の金剛力士像!
吽形相の金剛力士像!迫力がありますねぇ💦
泉福寺の創草当時は広大な寺域に堂塔伽藍が建ち並び
多くの塔頭を擁し 盛況の中にあったが
源平の乱に於いて戦火を被り 全てを焼失したという
(堂塔伽藍とは寺院建物の総称)
左甚五郎 作と伝わる
龍の彫り物が針金で縛られています
鎌倉時代!1234年 比叡山より信尊上人が来院され
河田谷殿(誰?)の庇護のもと
四人の弟子と共に復興に努力され 中興を成し遂げた
その弟子の 一人 尊海は 川越の喜多院 中院を
次々と復興する
法脈からは多くの英才が輩出しここに関東談林が開花し 関東天台の台頭へと発展する
このことにより
泉福寺が関東天台の祖山といわれるものである!
しかし!戦国時代の争乱の中で度重なる火難を受け
堂塔伽藍を焼失した
その時代 こんな話もある!
「1560年 越後の長尾景虎(後の上杉謙信)は
小田原北条氏によって追い出された関東管領上杉氏を擁護し
大軍をもって武蔵に侵入した
このとき川越城はすでに北条氏の手中にあった
景虎は岩槻城 太田氏との連合により
川越城を包囲したのである
景虎は川田谷の泉福寺に陣取ったが・・・」
〜中田正光著 埼玉の古城址〜より
最初に紹介した通り
このお寺は 荒川より かなりの高台に位置し
ここから川越城が見えた!とも 考えられる ロマン
江戸時代に至り 勅願の故を以って幕府の庇護を辞退する中にも
その由緒により 御朱印地五十石の内の五石と
不入地四万坪のみを拝領するところとなり
堂塔も次第に整備され
1752年には 山門 鐘楼を除き殆ど完成されるに至った
現在の建物は大体この時代のものである
じゃ この鐘楼は近年のものなのかな?
鐘の音を聞いてみたいです
尚 泉福寺には国指定重要文化財
阿弥陀如来座像【弘長二年(1262)-銘】があります
それがコチラで
ここの耐火収蔵庫に安置されているようです
コチラが大堂かな?
六地蔵様もありました 各お地蔵様に笠をかけてあげると
近日中の夜に宝物を玄関前に置いてくれるかも ウヒヒヒ
なんてゲスな事を考えているからダメなんだよ
仁王門の右手奥には本堂と思われる大きな建物
中院の本堂より大きいか?
近づけなかったから そう見えたのなか?
この門は中院の赤門みたいな門か?
川越の街中の寺院しか知らなくて
こんな緑に囲まれた大きなお寺は
物語に出て来るお寺みたいで素敵でした
「木洩れ日に 揺れる古寺の 石金剛」by 待つを場ショー!
それにしても
泉福寺の東叡山と中院の特別本山
どっちが格上なのか?
もうね!そんなちっちゃい事はどーでも良い
悠久の時の流れと共に その土地を護っている
両寺院には感謝しかありません
今日も明日もありがとうございます🙏
参考文献
ここまで読んでいただきありがとうございました。