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みちのく さんぽ!金色堂900年

埼玉県のJR大宮駅から東北新幹線で ひと眠り
今日はここからSTART

みちのく さんぽ!

一ノ関いちのせきえき!JR東北新幹線、JR東北とうほく本線ほんせんの駅
JR大船渡おおふなとせんの始発駅でもある

駅の近くでレンタカーに乗り出発だぁ
いざ!平泉ひらいずみ

最初に寄った場所はここ!

毛越寺 山門

筆者「毛越けごしでら?」
相方『毛越もうつう 世界遺産なんだから怒られるよ』
「誰に?」
『・・・天台宗てんだいしゅうのほとけさま』

毛越寺は「モウツウジ」と読みます
通常「越」という字を「ツウ」とは読みませんが
「越」は慣用音で「オツ」と読みます
従って「モウオツジ」が「モウツジ」になり
更に「モウツウジ」に変化したものです

世 界 文 化 遺 産
(特別史跡・特別名勝)

平地七町歩、塔山十五町歩 合わせて二十二町歩
全てが国の特別史跡・特別名勝の二重指定地で
平成23年2011年
「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として
世界文化遺産に登録されました

創建時の伽藍がらんは焼失したが
当時の堂字・廻廊の基壇・礎石 土塁などが遺されている

毛越寺 境内
正面に毛越寺 本堂

白鹿伝説

寺伝によると
嘉祥3年850年慈覚大師が東北巡遊のおり
この地にさしかかると 一面霧に覆われ
一歩も前に進めなくなりました
ふと足元を見ると 地面に点々と
白鹿の毛が落ちておりました
大師は不思議に思いその毛をたどると
前方に白鹿がうずくまっておりました
大師が近づくと 白鹿は姿をかき消し

やがてどこからともなく
一人の白髪の老人が現われ この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げました
大師は この老人こそ薬師如来やくしにょらいの化身と感じ
一宇の堂を建立し「嘉祥寺かしょうじ」と号しました
これが「毛越寺」の起こりとされます

毛越寺 本堂

毛越寺は慈覚大師じかくだいし円仁えんにんが開山し
奥州おうしゅう 藤原氏ふじわらし二代基衡もとひらから
三代秀衡ひでひらの時代に多くの伽藍が造営されました

特に基衡公は薬師如来に現世の平和を願い
往時には堂塔40僧坊500を数え
中尊寺ちゅうそんじをしのぐほどの規模と
華麗さであったといわれています

奥州藤原氏滅亡後 度重なる災禍に遭いすべての建物が焼失したが

現在「大泉おおいずみいけ」を中心とする浄土庭園と
平安時代の伽藍遺構が
ほぼ完全な状態で保存されています

平成元年1989年 平安様式の新本堂が建立されました
本尊 薬師如来(平安時代 作)
脇士日光・月光両界菩薩を安置

大泉が池
池越しに見る経楼跡

経楼きょうろうあと
金堂西廊の南端にある経文を納める建物で
鐘楼と対称の位置にある(鼓楼との諸説あります)

築山 州浜・出島と対応の位置にあり
海岸に迫る岩山を表現している
切ったら怒られる巨木
開山堂

開山かいさんどう
毛越寺開山 慈覚大師をお祀りするお堂で
他に両界大日如来像 藤原三代の画像を安置

でもさ!慈覚大師円仁さんは
桶川市の泉福寺829年
その1年後に川越市の喜多院830年を創建させ
それ以外に関東に200以上 東北に300以上の
お寺を開山させている 仏教界の元祖ゼネコン!

スーパー超 越ボーズ坊 主だよね

くやしいけれどぅおまえ夢中むちゅう 伽藍堂ギャランドゥ 伽藍堂がらんどお

紅葉には まだまだの頃でした
遣水

遣水やりみず
山水を池に取り入れるための水路であるが
谷川を流れ下り更に蛇行しながら ゆったりと
平野を流れる川の姿を表現している
水底には玉石を敷き詰め流れに水切り、水越し
横石などの石を配しており
作庭記さくていき」に記されている
これらの技法を目の当たりに出来る
貴重な遺構である

常行堂

常行堂じょうぎょうどうは 享保17年1732年に再建された建物で
本尊は宝冠阿弥陀如来 脇士は四菩薩
奥殿に摩多羅神を祀る
祭礼は正月二十日で古式の法要の後
「延年の舞」が神仏に奉納される

紅葉には まだまだの頃でした←2回目

そうか!「草加」←じゃないよ
極楽浄土ごくらくじょうどはこんな感じの風景なのかぁ?

鐘が突けない鐘つき堂
さすが綺麗に整備された世界遺産
観自在王院跡

奥州おうしゅう 藤原ふじわら の清衡きよひらの次男
二代目当主基衡もとひら
その妻が建立した大小二つの阿弥陀堂を
観自在王院かんじざいおういんという

参考:リーフレット

毛越寺を後にした我々は 一路 
中尊寺へ向かうのであった

中尊寺 第一駐車場

お昼少し前の我々は【わんこそば】の看板に
魅せられて【泉橋庵】に入店するのであった

手打ちそば「泉橋庵」
わんこそば!ひとり12杯
天麩羅付を注文
山芋+つゆ=美味い

その昔!同じ岩手の盛岡で
「わんこそば」を家族で食べたが 
ひと口食べると給仕さんが次の蕎麦をお椀に入れる 
自動強制給配方式で(大食い大会)になってしまい
90杯くらいで「お椀に蓋」をすると
「ごちそうさま」の合図なのに
給仕さんになかなか蓋をさせてもらえなく
攻撃を止めて赦してもらったのが
108杯目だった(108は煩悩の数)なので
「わんこそば」=こわ蕎麦そばのイメージがあるが
ここは12杯と云うリミットがあるので安心だ

「ごちそうさまでした」

いざ!中尊寺ちゅうそんじ 参道さんどう

参道入口
月見坂 名前は良いのだが・・

月見坂つきみさか
中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵に位置しているため
この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の
表参道として利用されてきました

ちょっと歩いただけで
駐車場を遥かに見下ろす傾斜を上る

参道をのぼり始める 両脇には江戸時代に
伊達藩だてはんによって植樹された樹齢300年を数えようかという
幾本もの老杉が木陰を作り参拝客を迎えます
老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸れます

永遠に続く坂道
Go to Heavenとは「登山」だと知る

表参道沿いには諸堂が点在しますが
ほとんどが江戸時代中期以降に再建・移築されたものです
境内の木々と共に四季折々にいろいろな表情を見せてくれます

堪らず休憩 松榮堂「弁慶園」
これが名物「弁慶餅」
群馬県の「焼きまんじゅう」を想像するが
食べると別物だと知る!是非 行ってください
弁慶が使った槍?説明を見ず
ひたすら弁慶餅と合戦中!
顔を出して弁慶になりきる?
弁慶堂

弁慶堂べんけいどう
弁慶堂は文政10年1827年の建立でご本尊は勝軍地蔵
古くは愛宕堂と称していましたが 義経・弁慶の木像を安置し
明治以降は弁慶堂と呼ばれるようになりました
堂内の格天井には60種余りの草花が描かれています

弁慶像

弁慶像は弁慶と同じ身長186㎝で造られているとか
奥には主君 源義経公もいらしたのでスマホで数枚撮影した
はずが・・画像に残っていたのは この弁慶像だけ

東方面が美しく見下ろせる場所です

右手には奥州藤原氏に縁の深い
束稲山たばしねやま北上川きたかみがわ衣川ころもがわを眺望することができます

中尊寺地図
薬師堂

薬師堂やくしどう
明治18年1885年の改築で 本尊の薬師如来やくしにょらい
日光にっこう月光菩薩がっこうぼさつ十二神将じゅうにしんしょうを安置し
和歌山県の熊野より飛来したと伝えられる
熊野権現くまのごんげんの御神体を並び祀っています
正月4日には中尊寺一山ちゅうそんじいっさん僧侶そうりょによって修正会しゅしょうえが行われます
お堂は令和2年2020年新たに改修され綺麗です

中尊寺 ラッピング郵便差出箱
峯薬師堂
この時点で本堂前を通り過ぎております

みね薬師堂やくしどう
境内の別峯べつみねに建っていましたが 度重なる野火に遭い
元禄2年1689年に現在地に移されました
讃衡蔵さんこうぞうに安置されている丈六じょうろく薬師如来やくしにょらい
元は この堂の本尊でした 堂の向かって右傍に建つ石造の宝塔ほうとう
12世紀のもので重要文化財に指定されています

不動堂
この裏側に駐車場がある事を
この時に知る

不動堂ふどうどう
本堂近くの不動堂は昭和52年1977年建立の祈祷堂です
御本尊の不動明王ふどうみょうは 天和4年1684年
仙台藩主せんだいはんしゅ 伊達だて綱村つなむらこうにより
天下泰平てんかたいへいを祈願し新調されました
不動明王ふどうみょうおう様は じゃやぶ
我々のあやまちをただしてくれる仏様で
少々厳しいお顔をされています

大日堂

大日堂だいにちどう
享和2年1802年の再建で本尊は金剛界大日如来こんごうかいだいにちにょらい
前庭に建つ石造の宝篋印塔ほうきょういんとう
文政6年1823年に造立されました

更に奥に進む
金色堂も飛ばして
白山神社へ行くのか?
かんざん亭?

また休むのか?休みたいのか?(笑)お茶か?

テラミス ¥600円に釘付け

神社エールもあるぞ!
これ!と云ったお寺のミスも無く
美味しいテラミスでしたん💖
かんざん亭からの眺望 山々や木々が美しく
紅葉の季節は混むだろうね?
天気が良ければ秋田県境の焼石岳も展望できます

かんざん亭
かんざん亭1階では 平泉でとれた自然薯じねんじょや季節物の山菜を使った
そば、うどん、そして甘味やコーヒーなど ご用意して
みなさまをお待ちしております←なぜか宣伝(笑)

かんざん亭 店内
この日は空いていました
かんざん亭 お勧めです
天台宗 東北大本山 中尊寺 表門

本堂ほんどう正面しょうめん表門おもてもん
薬医門やくいもんとよばれる形式かたしきもんで そのむかし
伊達だて兵部ひょうぶ宗勝むねかつ屋敷門やしきもん
移築いちくしたものと伝わりますが 移築のいきさつは
さだかではありません (岩手県指定文化財)

本堂
中尊寺というのは この山全体の総称であり
本寺である「中尊寺」と
山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される 一山寺院です
本堂は 一山の中心となる建物で 
明治42年(1909)に再建されました 中尊寺の寺格は
別格大寺 天台宗 東北大本山です

中尊寺は嘉祥3年850年 比叡山延暦寺の高僧慈覚大師じかくだいし円仁えんにんによって開かれました
その後  12世紀のはじめに
奥州おうしゅう 藤原氏ふじわらし 初代しょだい 清衡きよひらこうによって 大規模な堂塔の造営が行われました

清衡公の中尊寺建立の趣旨は
11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年後三年合戦)で亡くなった
生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め

みちおく 「みちのく」といわれ辺境へんきょうとされた東北とうほく地方ちほう
仏国土ぶっこくど(仏の教えによる平和な理想社会)を建設するというものでした

それは戦乱で父や妻子を失い骨肉の争いを余儀なくされた
清衡公の非戦の決意でもありました

清衡公は長治2年1105年より中尊寺の造立に着手します
まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て
境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し
続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立します
この伽藍がらん建立は『法華経ほけきょう』の中に説かれる
有名な 一場面を具体的に表現したものでした

古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められます 
本尊は丈六の釈迦如来像 高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像です
中尊寺の大壇主 藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として
安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養されました
中尊寺は天台宗の天本山であり 本尊の両脇にある灯籠には
宗祖伝教大師 最澄 以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されています

娑婆世界で法華経を説く釈迦如来のもとに七宝で美しく荘厳された巨大な多宝塔が現れた。釈迦如来は神通力をもって十方世界で法華経を説く自らの分身の諸仏を一ヶ所に集めると塔の扉を開いた。すると塔中に多宝如来が現れ、釈迦の説く「あまねく平等に開かれる仏への道(三乗即一乗)」をたたえてその真実性を証明した。多宝は座を分かって釈迦に勧め、塔中に二仏が並座した。釈迦は自らの滅後、法華経を永くたもち守るべきことを聴衆に説くのであった。

[法華経 見宝塔品]

清衡公は釈迦如来しゃかにょらいにより説かれた法華経ほけきょうに深く帰依し
その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとしたのでした
清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で
この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています
この境内に入り詣でれば ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる
諸仏の功徳を直に受けることができる という意味です

法華経の教えに浄土教じょうどきょうや密教を加え大成された
天台宗てんだいしゅうの教えに基づく伽藍が境内に建ち並び
その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡あづまかがみ』によると
寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだといいます

二代基衡もとひらこうは 父の志を継いで
薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ
三代秀衡ひでひらこうは阿弥陀如来を本尊とする
無量光院を建立しました

三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は
すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで
仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもありました
みちのく」=極楽浄土へ「みちびく」が如く!

本堂の額

平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し
みちのくは戦争のない「平泉の世紀」でした

しかし 平氏へいし政権せいけんを倒したみなもとの義経よしつねが 兄頼朝よりともと対立し
平泉に落ちのびて間もなく 義経を保護した秀衡公が病死すると

四代泰衡やすひらこう頼朝の圧力に耐えかね
泰衡公は義経を自害に追い込みます→衣川の戦いこの戦いでは
河越重頼の娘で義経の正室 京姫とその娘4歳も亡くなる
三人の慰霊碑は川越・常楽寺にも御座います

その泰衡公も頼朝に攻められ
文治5年1189年奥州藤原氏は滅亡したのです

鎌倉時代以降 大きな庇護者を失った中尊寺は次第に衰退し
建武4年1337年の火災で多くの堂塔、宝物を焼失しました

しかし国宝建造物第1号の金色堂こんじきどうをはじめ
建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる
文化遺産が現在まで良好に伝えられ
東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています

平成23年2011年に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が
世界文化遺産に登載されました

金色堂覆堂へ
金色堂は撮影禁止

金色堂こんじきどう
中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建造物で
天治元年1124年に建立されました
令和六年2024年は㊗建立900年🎊です

堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂
(屋根部分は解体修理の際に金箔の痕跡が発見できなかったために
箔補てんは見送られました)
まず堂内の装飾に目を奪われます
4本の巻柱や須弥壇しゅみだん←(簡単に云うとお寺の仏壇)
長押にいたるまで、白く光る夜光貝の螺鈿細工
透かし彫り金具・漆蒔絵と 平安時代後期の工芸技術を結集して
荘厳されており 堂全体があたかも一つの美術工芸品の感がします
須弥壇の上にご本尊阿弥陀如来 向かって右に観音菩薩 左に勢至菩薩
左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び 最前列には持国天と増長天が
破邪の形相でこの仏界を守護しています
この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なものです

孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には 奥州藤原氏の初代清衡
向かって左の壇に二代基衡 右の壇に三代秀衡の御遺体と
四代泰衡の首級が安置されています 血筋の明らかな
親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がありません

国宝建造物第1号金色堂は 中尊寺を また奥州藤原文化を象徴するものです
(国宝)

金色堂 覆堂

今回の みちのくさんぽ!の出発点は春の記事でした

きゅう覆堂ふくどう
金色堂を風雪から護るために 正応元年1288年鎌倉幕府によって
建てられたと伝えられる5間4方の堂で
古い記録には「鞘堂さやどう」とも記されています

さや」の字には
「大切なものを保護するために被せたり 覆ったりするもの」
という意味があるからです
松尾芭蕉をはじめとする文人墨客 あるいは伊達政宗
明治天皇といった歴史上の人物は
薄暗いこの堂内に入り金色堂を参拝したわけです

金色堂解体修理(昭和の大修理)の際 現在地に移築されました
近年の調査では 金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ
何度かの増改築を経て 現在の建物は室町時代に建てられたと
考えられています(重文)

帰路も月見坂を下ります 下り道の方が
危ないので慎重に!

月見坂 下で寄り道

弁慶の墓

武蔵坊弁慶大墓碑
文治五年1189年義経の居城 高館焼打されるや
弁慶は最後まで主君を守り遂に衣川にて立往生す
遺骸をこの地に葬り五輪塔をたて
後世 中尊寺の僧 素鳥の詠んだ石碑が建てられた
「色かえぬ松のあるじや武蔵坊」(境内掲示より)

駐車場に戻ってきましたん💖

最後に立ち寄った場所は・・無量光院跡むりょうこういんあと

藤原秀衡が 宇治平等院の鳳凰堂にならい建立した寺院跡です
阿弥陀如来を本尊とし未来平和を願い祈りました

無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し
『吾妻鏡』にも無量光院の近くに奥州藤原氏の
政庁・平泉館があったと記載されている

新御堂にいみどうと号した 新御堂とは毛越寺の新院の意味である
発掘調査の結果 四囲は東西約240メートル 南北約270メートル
面積約6.5ヘクタールと推定され
平等院よりも規模が大きかったと推定される

本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で
地形や建物の配置も平等院を模したとされるが
中堂前にせん=素焼きのタイルを敷き詰めている事
池に中島がある点が平等院とは異なる

本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが 翼廊の長さは一間分長い
建物は全体に東向きに作られ 敷地の西には金鶏山が位置していた
配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように
設計されており 浄土思想を体現している Wikipediaより

建物らしき物も無く 全部「推定」でも
ここが「あの世」と言われると
「あぁ・・そーですねぇ」と納得しそう

レンタカーを返して 一ノ関駅付近をぶらりさんぽ!
美味しそうな お店を探す のだが

結局!

各自 好きな駅弁を買い夕飯です

衝撃の松月堂!

日帰り みちのくさんぽ!お疲れ様でした

家のご先祖様へ無事に旅ができた感謝のお土産
    【中尊寺】の【金色香】

ここまで読んでいただきありがとうございました。

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ケンちゃん
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