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2008年からの山羊座冥王星時代を振り返る vol.01

2008年の年明けを、自身のダイアリー“山の上から”で振り返ろうとしたところ、ゼロ年代の内、ものの見事に2008年だけは一つも記事を挙げていないことが分かった。
大学四回生として、卒業論文を提出したかどうか、といった時期から始まるから、その“生みの苦しみ”が(山羊座冥王星期間らしく?)見出せるかと思ったのだが、当てが外れた格好である。

というわけで、頼りない記憶を繙くと、卒論はホワイトヘッドの『科学と近代世界』という著作を題材にしたところ、副査を務めた先生に“よく出来たブックレポート”であるという、決して褒め言葉ではない評価を受けたことだけは、覚えている。
哲学科の学生としてオリジナリティに欠ける、という意味の評価を受けたのは、確かに的を射ているようでいて、その先生から受けた授業が教科書通り―つまりオリジナリティに欠けるもの―だったことを印象深く覚えていた私は、その評価に不満足であったように思う。

とはいえ、卒論ゼミを受け持ってくださり、正査を担当くださった丸山徳次先生には、限りなく現代に近いアメリカの哲学者を扱うことを許し、好きに書かせていただいたことに、感謝している(今は分からないが、20年ほど前の京都では、哲学といえば古代ギリシアと近代ドイツが主流で、それ以降の時代でも、せいぜい19世紀くらいの哲学までが射程であった。先生方が学んで来られた範囲も、当然その範囲内にあり、現代に近い哲学は、基本的に独学で学ぶしかなかったのである)。

今にして思えば、20世紀初頭のホワイトヘッドよりずっと時代を下った現代の、しかも存命の哲学者について、私は学部とは全く別の時間で読んでいた(当時の、と敢えて述べておきたいが、学問的評価が定めようがない、存命中の人物が著した著作は、当時の大学研究者は扱いたがらなかったように思うし、まして学部生が扱うことは、まず無かった。例外を挙げるなら、母校とは異なる大学から講義に来てくださっていた、浅沼光樹先生が現代の映画や漫画を扱っていらっしゃって、非常に刺激的な授業だった)。
このときに読んでいた著作(ケン・ウィルバー『無境界』、『科学と宗教の統合』など)を題材にして論を展開すれば、さぞ独創的な論文が書けただろうけれど、その勇気と、論理を構築する根気が、私に無かったことは認めざるを得ない。

さて、構築という言葉は、たいそう山羊座らしい概念である、と2024年、冥王星が山羊座と水瓶座との間を行きつ戻りつした後になって思う。
地の星座の最後にあって、政治や権力、ガバナンスといった象意を持つ山羊座は、積み上げることにおいて黄道十二星座の内で最も力を発揮するから、そこに破壊と再生を齎す星、冥王星が滞在した16年の最初期において、私が論理の構築を放擲したことは、ある意味で星の流れに沿っていたのかもしれない、とこれは半分冗談半分本気である。

“よく出来たブックレポート”で口頭試問を切り抜けた私は、同年4月から大阪市内で社会人1年目として働くことになる。
2004年、“世の中で最も役に立たない”という理由で哲学科に入った私が、2008年初めて就いた職は、商品先物取引の外務員、という仕事であった。

一般的に“先物”と略されるこの仕事は、ごく簡単に言えば、ハイリスクハイリターンの投資で、その対象をゴールドや原油、農作物といった、実際に産業界において“現物”として必要とする企業が、価格の乱高下に備え、リスクヘッジするために生まれた市場であるが、既に当時はその意味合いがほとんど形骸化していて、要は個人投資家やファンドなど、資金を殖やすことを目的とした存在が、投機的にその利鞘を狙って資金投入する場になっていた。
私は単純に、特定の業界ジャンルを超えた顧客、しかも富裕層の顧客しか対象としないことに興味を持って、経済や経営といった学問を学んでいない学生も受け入れていた、先物の業界に身を投じたというわけ。

知識のない者を喜んで採用することの真意は、40歳を目前にした今ならば容易に想像がつくが、要は体力と気力とを武器にして働くことだけが求められる、ということである。
外務員という資格を取得するための試験は、元来学校の試験を要領良くこなせていた私には、さほど難しくなかったが、難しかったのはその体育会系の企業風土であった。
淀川べりの河原で、大声を出すだけの新入社員研修(誰よりも声が出なかったのに、私だけ喉を潰した)に始まり、電話帳の上から順に営業電話をかけたり、大阪市内の雑居ビル群を目がけて出掛けて行っては、ビルの最上階までエレベーターで上がり、片っ端から入居テナントのドアをノックしながら、下まで降りてくる日々は、なかなかに心身を削るものであった。

さして遊ぶ時間も残らぬほど、早朝から夜遅くまで働いて、社宅の古いマンションは、恐ろしくボロくて恐ろしく安かったから、職を辞すまでの10ヶ月間で三桁万円ほど貯金したと記憶している。
辞めた理由は簡単で、先輩社員の皆さんを見渡してみて、“こういう人々になりたいわけではないなぁ”と思ったからだった。
もちろん、それを面と向かって伝えたわけではないけれど、年が明け2009年の初頭に梅田で催された飲み会で、2軒目の風俗店へと皆が向かう列から、私一人だけ離れて、同期の友人に辞める旨を、ガラケーからメールしたのだった。

今ではどうか知らぬけれど、当時はまことしやかに、正社員は辞める3ヶ月前には辞表を出すものと言われていた(その割に、リーマンショック後の車内では、急な“肩たたき”が頻繁にあった)が、飲み会の翌日には社章のバッジを社長にお返ししたから(その前に課長からたいそう叱責されたが、その内容は、当時の私からしても、今となって当時の彼より随分と齢を重ねた私からしても、的外れ甚だしいものであった)通説というのはまこといい加減なものである。

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