エゾマツの木の下で「1を聞いて10を知る。」について、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの
1を聞いて10を知るということわざがある。
物分かりのいいことの例えとして使われるが、本当に1を聞いて10を知るというのはいいことなのだろうか。
そもそも「知る」というのはどういうことかということから考えていきたい。
「知る」という行為はとても難しい行為である。
古文で「知る」というと、理解すると同じ意味である。
理解というのは人それぞれに解釈が入り込む余地がある。
色が、光の波長の反射しやすさで決まっているだけで、人々の目に入っている色が本当に同じ色とは限らない。
トマトを見て赤だと覚えるが、人によっては赤の定義、赤の捉え方が違うかもしれない。
トマトとりんごは同じ色であること、くらいしか人と共有できている事実は存在していないとも考えられる。
こんな感じで、理解というのには人それぞれ解釈が含まれる。
1を聞いて10を知った時、人は正しいベクトルの10を知ることができているのかはわからない。ただ1の情報から10倍の想像を膨らませただけかもしれない。
例えば、新聞のニュースの見出しを見たとき。
Twitterなどでは見出しだけ流れてきて、クリックして詳細を読むという記事が多い。
見出し(1)を見て、内容(10)を理解することは果たしてできるのかということを考えてみよう。
最近はクリックさせるためにいわゆる"釣り"のような題名をつけて、自社サイトに流入させるというような行為が見られる。
最近だと、「櫻井くんと相葉くんが結婚!」というような記事がバズっていた。もちろん2人が結婚しているわけではないが、そのように読めてしまっていた。
そこまで有名な人だからこそ、違和感と面白さに突っ込めるが、知名度の低いタレントや政治家などではどうだっただろう。おそらく、タイトルだけ読んで、この2人は結婚したんだ、と思い込む人が多数いると思われる。
これは1を聞いて10を知ったわけではなく、ただ読むことを諦め自分の想像で全てを補っただけにすぎない。
本当に10を知ったと言えるのは、その無名のタレントの記事を見てちゃんと中身を読んで、あーこれは別々の人が結婚したんだ、あの嵐の件と一緒やん!っていうところまで行ったときくらいではないか。
理解というのはそれ単独で行われるわけではない。
何かとの連関、関連性を見つけたり、構造的に似ているものというのを頭の中ないしは外部の情報から探し出し、それらとの相似関係を導き出すというのが理解の重要なポイントではないかと思う。
そのような相似関係を見つけるためには教養が必要だ。
自分のアンテナをどこまで遠くまで張れるか、それが一見全く別物に見えるものと1とを繋げることに繋がる。
よく映画などで、このモチーフはなんだーとか、この映画はこれのオマージュでーとか、社会風刺になってるーというような批評があるが、それを正しく指摘できる人はきっと教養のある人だ。
ただの怪獣映画に、時代背景や、監督の伝えたい隠れたメッセージを見つけることは困難であり、時代背景や他のコンテンツ、監督の見ていた世界そのものをおしなべて理解する必要がある。
理解のための理解というようなものだ。
別に1を聞いて10を知る人がいないという結論にする気はないが、1を聞いて"正しく"10を知るというのは簡単そうに見えて本質はかなり難しいものであるということである。
ここからが本題で、1を聞いて10を知る人(知った気になってる人も含む)にとって世界はどのように見えているのか。
例えば、東京に全く来たことがない人に、池袋、新宿、渋谷を案内すると、おそらくどれも一緒に見えるだろう。人が多くて高いビルがたくさんあって、若者が多い。しかし、見る人が見れば、同じようなビルでも、池袋はデパートが多いな、とか、同じ人間が歩いてても、この人は渋谷っぽいファッションだなとか分かるようになってくる。
これは東京にただ住んでいるだけではなく、東京という場所を理解しようと生活をしていた結果だと思う。(それが無意識であったとしても)
そのような人はきっと1を聞いて10を知ることができるような人だと言える。
逆に、1を聞いて1しか知らない人、の世界はどうなっているんだろう。毎日同じ道で通学する小学生は、毎日の道がきっと特別に思いながら歩いているのだろう。道端に生えている草は日々成長しているし、すれ違う人もきっと毎日違う。(トゥルーマン・ショーのような世界は起こり得ない)
しかし、大人が同じ道を毎日歩いたらどうだろう。ただ無機質な道路を毎日同じルーティンで歩いてると思うだろう。
子供は純粋に世界を捉えることができる。
毎日は違う日で、同じ学校に行っても同じ会話がなされることは当たり前にないし、同じ時間で同じ歩数で学校に到着するわけではない。それだけで世界は違うと認識できる。
大人になるとただ通勤のために使う手段としての道路であったり満員電車であったりするわけで、その毎日の変化を気に留めることはない。
つまり、大人の1をきいて10を知った(と思い込んだ)人は、11以上の出来事が起きない限り、日常に新鮮さを感じることができない。
一方で子供は1を聞いて1を知ったら、次は別の1を聞いて1を理解する。しかも、2を聞いても新鮮に驚き感動することができる。
最近、自分は何か人生に飽きたなと感じることはある。
世界に対して感動や驚きがなくなっている。
驚きというのは自分の解釈として、自分の想定外の出来事が起きた際に巻き起こる感情である。
常に100のことを予想している人にとって、たかだか30のことが起きたとして何も驚くことはない。
ただ、10ほどしか想定、予想してない人にとって30の出来事が起きた時、それはもう感動を通り越して驚きあきれるだろう。
今起きている出来事を楽しめない人にとって、飽きというのは、どんなに大量にご馳走を食べても満腹中枢が反応しない体のバグのようなものだ。
体は新鮮さを探し求め生きていくが、どこに行ってもきっと満足できないと思う。そもそもの感受性がバグっているから。
何事も継続が大事だ!石の上にも3年!というようなことが言いたいわけではない。
ただ、感受性のなさにかまけて新鮮さを求めて生きすぎるなということだ。自戒も込めて。
逆に、1を聞いて1を知ることが素晴らしいと賞賛しているわけでもない。
結局、質ではなく量の問題であることが多い。
水俣病の原因になった水銀も、本来人間の体の中に含まれているものだ。川に流したところで無害なものだと思われていた。それは質の問題であって量の問題は考慮していなかった。多量に流された水銀は、生物の体内で処理できる量を超え、魚の体に蓄積され、その魚を人間が食べることで、さらに処理できる量をこえ、あのような悲惨な状況に陥った。
RADの狭心症という曲にこのような歌詞がある。
この目が二つだけでよかったなあ
世界の悲しみが全て見えてしまったら
僕は到底生きていけはしないだろう
この世の中にはたくさんの問題が転がっていて、私たちの想像を超えるような悲惨な世界はこの世に確かに存在する。
ナチスの毒ガスで虐殺した件についても、歴史上の出来事として、1を聞いて10を知るように、理解をした気になっているが、なくなった人間一人一人の心に寄り添って辛さを共有しているわけではない。
そのようなことはもちろん不可能ではあるが、そのようなことがもし可能であったならば、人間の心は悲惨な現実に心を痛め、そのまま耐えきれず死んでしまうに違いない。
どこかでまとめて1から100を想像して、悲しみの渦から自分を解放してあげないと、世の中生きていけない。いい意味で淡白である必要があり、それが人間に植え付けられた防衛機構だ。
ここまで来て元も子もないことを言うと、そもそも人間の世界に1も2も明確な線引きが存在するわけではない。
どこにもグラデーションがあり、1だの10だのと割り切ることはできない。
1-10のうちのこのへん。というようなアバウトな感じで生きていけばいい。
結局自分を許せるのは自分しかいない。
結局自分の解釈で世界は回っている。
結局この世界は究極の主観だから。
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