ホントは伝わってない!あなたの言葉にはゆらぎがある。
言葉ってかなり便利であり、人類の発明の中でも上位にランキングする。(ってことにしてw)
本来であればアインシュタインの人類の最大の発明は複利であるが本当に偉大な発明やイノベーションが起こった時には、その発明が誰の手によって発明されたかなんて関係なく、生活に馴染んでいってしまうことだと感じている。
その一つが「言葉」であるように感じる。この言葉を発明と定義するかどうかは一旦置いておいて、言葉とは世の中になくてはならないモノでありながら当たり前すぎて意識して使っている人が限りなく少ないようにも感じる。
便利すぎるからこそ、無限に使えるからこそ、誰もありがたみを感じなくなりつつあるのかもしれない。
それが言葉のメリットであり、デメリットである。
SNS(特に文字を主体とするX旧Twitter)は罵詈雑言の嵐だという話を聞いたことがあるだろうか?
その原因は外国とは違い日本は義務教育の中で言語を使えるようになる。
これはIQや生活環境・教育環境において変化するわけではなく国民のほぼ全てが受けられる義務教育の中の一つのコンテンツであり、言葉をつかえない日本人はほとんどいない。
街中で見づしらずの人とも会話ができる。
全国民の言語リテラシーがこれだけ高いのは日本だけ。だからこそ、一般常識や相手の気持ちを考えられない人ですら言葉を分かったふりをして使うし、理解したつもりになる。
日本の教育のレベルの高さ。長所を伸ばすのではなく最低ラインを底上げ数るのが日本の教育であり、その教育方法に救われている人も多い反面、足を引っ張られている人も多いことも意識しなければならないように感じる。
これは日本人の教育レベルが高くいことが原因であるし、言葉という画期的な発明過ぎるがゆえに軽んじてしまうようにも感じる。
他人と会話ができる、それは自分の言葉が通じること、そして相手の言葉が理解できること。
日本が島国であり日本国内であれば、ほぼ100%日本語が通じる環境も後押ししているのかもしれない。
でも有限じゃないから雑になる
そこでキングコング西野さんが発明したサービスが「レターポット」であり、自分の使える文字数を購入して相手にプレゼントするというサービス。
強制的に言葉に制限をかけ、自分の持っている・使える言葉の中でもきれいな言葉を選定して相手に送るというサービス。(だったと理解しているけど、間違ってたらごめんなさいw)
しかし自分が送った自分の中での最大限のキレイな言葉ですら相手に伝わらないことがある。というよりも自分が伝えたかったことが100%伝わることなんてない。
じゃあそもそも伝わるとは何かを考える必要がある。だって目の前の人が同じ日本人であっても伝わらないのだから・・・。
そんな冗談はさておき、伝わるとは何かを考えた時にどうすれば伝わりやすいかを考えることが大切だと思う。
どうすれば伝わりやすいのか?それは自分が使える言葉の数によるところが多く、自分が使い慣れた言葉では相手に伝わらないことがある。
分かりやすい例えをするなら、専門職にいる人は自然と専門用語を使うことが多いと思うが一般人には伝わらないことがほとんどであり、大切なことは相手のリテラシーに合わせた言葉を使えるかどうかだということである。
頭がいい人は難しい言葉を使える人ではなくて、難しい言葉を誰にでもわかる言葉に変換して伝えることができる能力だ。
最近、流行りの横文字を自慢げに使う奴よりもその横文字を分かりやすい日本語に変換して伝えられる人の方が何百倍も頭がいい。
ちなみに私の言葉は分かりやすいとおっしゃってくれる人がいるが、私の場合はそもそも難しい言葉がつかえないことと、横文字が全く覚えられないことが要因なので決して頭がいいわけではないことはココで説明しておこうと思う。
そして伝えるために必要なもう一つの要素として「感情」がある。
自分がそのことに対してどういう経験をしていて、その経験を元にどう想ったのかが感情のベースとなると考えていて、その感情に熱が入れば入るほど、相手に伝わる量は変化する。
《伝わる=言葉の数×感情》
言葉は知っているだけじゃ意味がなく感情がのった時に初めて使える言葉になる。その言葉を乗せられていない時点で与えられた言葉である、腹落ちしていない、頭落ちの状況だと言えるのかもしれない。
言葉には意味があって、あたかもその言葉が言葉の全てかのように考えている人が多いように感じる。
もちろん間違えではないし、意味としては合っている。
じゃあ例えば少し考えてほしいのは、仕事を「頑張る」という言葉。
残業をすることが頑張るのか、成果を上げることが頑張ることなのか、我慢したり、無理をすることが頑張ることなのか!?
この話は私が従業員時代にさかのぼるんだけど、当時、営業をやっていてまったくもって成果を上げられていない中、部長面接のときに言われた言葉でもあり『頑張れ』って言われたんだよね。
その時に部長に聞いてみた言葉がこれ。『頑張るってなんですか!?』
もちろん答えられるはずもないし、みんなだって答えられないだろ?
だって頑張るという言葉に対して、イメージする内容は人それぞれ違くて、違って当たり前なんだから。
辞書で調べれば、「忍耐して、努力しとおす。気張る。」と出てくるが忍耐とはどういう状況なのか?努力とは何なのか?気張るとは?
だから頑張るという言葉を説明できない。でもその言葉を使ってる自分が好きで使っているだけなんだよね。きっと。
「頑張る」って話が出たから少し話をするけど、頑張るって2つの時しか使えないと思っていて、1つめは自分に対して使うこと。
頑張ってない自分から頑張った後の自分に対して使える言葉。
もしくは終わったことに対して他人が自分に対して勝手に使う言葉であり、未来に対して使うことではないと考えている。
少し話は脱線したけど、この言葉のイメージだって発信側と受取手によって解釈は違うし、そもそも人それぞれ違う。
その理由は簡単で人がイメージできる内容のほとんどは「自分の経験」がベースとなっていて、それ以上もそれ以下もイメージできない。
だからこそ言葉の意味は同じだとしても一つ一つの言葉の受け取り方や受け止め方が異なる。
この感覚を私は言葉の「ゆらぎ」と考えていて、世の中の全てのコトには「ゆらぎ」があると考えている。にも拘らず自分の言葉には「ゆらぎ」が無いように錯覚していて、伝わると勘違いしている。
自分の言葉が伝わるものだと勘違いしている人が多い。
これが伝わらない理由の一つであるように感じている。
《言葉=伝わりづらは/わかりやすさ》
そして言葉を知れば知るほど、否定も肯定もできるようになる。
それは良くも悪しくも相手に合わせた言葉のチョイスができるようになることが要因であり、正直否定するために言葉を使う人のほとんどは、その言葉の意味を考えていない。その人が使っている言葉の理解度は「意味」で留まっていることが多い。
それは以前、投稿させて頂いたけど、正論ばかりいっていて1mmも正解を言っていない。
ストレートに伝えるとバカは言葉の意味のまましか解釈しない。いや・・・逆で言葉をその言葉の意味でしか解釈しない人がバカなのかもしれない。
養老孟子さんの著書にある「バカの壁」
バカは今までに経験したことの中でしかモノゴトを判断できないし、自分の世界でしか生きていない。
だからこそバカの壁というモノが存在するけど、バカ側からじゃわからない。だからずっと気が付かない。これはある種、分断であり価値観やリテラシーが異なる人は交わっているるといいことはないように感じる。
そして一番厄介なことは、会話や打合せをバカとしたときにバカ側に合わせて話をすることになることだ。
要はバカが使う言葉とは「わかりやすさ」だけを意識した言葉であり、その言葉にある意味や想い、ゆらぎを考慮していない。辞書に載っている意味をそのままの解釈で使っている。
それに比べバカではない人が使う言葉とは、伝わらないことを前提に話しているし、伝わらないことを理解しているからこそ、その言葉の先にある想いを伝えようとするし、定量的に伝えるし自分が発する言葉の一つ一つを大切にしているようにも感じる。
そして自分が発する言葉に責任を持っているようにも感じる。
ただ勘違いしてはいけないことは、自分が持っている言葉のリテラシーを他人に押し付けないことであり、理解してもらうように努めることだけを考えたほうがいい。また逆もしかりで、相手の言葉に対して無理して受け入れなくていい。理解さえすれば。
この「受け入れる」と「理解」の話は別の機会にでも・・・。
しかしこの考え自体はかなりマイノリティの感覚であり、ただ単純に言語に依存していただけで世の中でみるとマイノリティであり、言葉に価値なんてない。正確には価値を見いだせる人がいないと言った方がいいのかもしれない。例えば動画コンテンツは話している内容なんてほとんどの人が理解していないし、理解しようとしていない。第一印象がほとんどだし、話す内容よりも見た目に対して感想を持つ人の方が多い。
世界は言葉の意味や想いが当たり前のように通じるようにはできていないし、理解できるようにつくられたわけではない。
・・・世の中にある言葉は、そういう風にできていない。
そんな中でも、もし使える言葉が有限になったときに今と同じような言葉を使うだろうか?そして同じような言葉に時間を使うだろうか。
考えなければならないところはココであり、言葉の意味や想いよりも大切なことだと思う。
自分が知っている言葉ではなく、使える言葉の中で一番きれいな言葉を使う努力をするよね。
きっと自分が使える言葉を使おうとしたとき、軽はずみな言葉には使わないだろうし、否定や論破には使わないだろ。
そんな言葉に使っている時間がもったいないし、その言葉を発すれば発するほど、自分の価値を下げていることに気が付くはずだ。
これは自分が誰に時間を使うかということにもつながっていて、もし自分の大切な人や関わりが深い人、つながりが長い人の時間に限りがあることを知ってしまったら、その人との時間を増やそうとする人が多いと思う。
その考え自体が浅はかである。
限りがあるから、有限だと気が付くから大切にするのではなく、初めから大切にすればいいし、大切にできないのであれば、自分にとってそれだけの価値しかないことなんだと思う。
余命が決まった人は必ずきれいな言葉を使う。
それは相手をけなしたり、バカにするような言葉に時間を割きたくない。
可処分時間が有限であることを自覚した人は、自分の言葉や行動の全てを自分の為に使うはずだし、自分の感情があがることに使う。
今の人生が有限だと気が付いた人ほど、言葉も行動もきれいになっていくことは誰だってわかっているけど、逆になぜ有限だと感じないときれいにしていかないのだろうか。
みんなが使っている言葉は・・・本当に今のままで大丈夫かい!?