自身が「良い」側だと思ってる人たち。
耳あたりの良い言葉。
進んでいる、クールだと思ってそれらを標榜する。記号を身に纏う。
でも、それが「身体」に落とし込まれていない。「身体」になっていない。
「良い」言葉、概念、イデオロギーを身に纏っているだけで、自身も「良い」側だと思っている。
自分は決して「悪い」側にはならないので、"敵"である「悪」をいつでも批判できる。
こうして、自身には「悪」がないかのように錯覚することができる。
表面的なリベラルにありがちだと思う。でも、そんな在り方は「リベラル」「自由」とは呼べない。繰り返すが、"表面的"なリベラル。
「良い」人しかいない平和な村に、「悪」である怪物が外部から村を襲う。
彼らにとって、「悪」はいつも"外部"からやってくる。だから、"内部"にいる彼ら自身は絶対に「善良」ということになる。
だから、そんな「悪」をいつでも批判できるし排除もできる。
村を救う「ヒーロー」気分に浸れるってわけだ。
例えば、「人には個体差がある」「人それぞれみんな違う」「多様性」
これらの言葉だけを聞くと、そんなこと当たり前だろうとほとんどの人が思う。
でも、彼らの言動はそれらに基づいていないように見えることが多い。特に、「人生」「健康」に関するトピックでよく見かける。
こうすれば「健康」になる。ああすれば「人生」が変わる。人によって違うんじゃなかったのか。
そんな彼らに上記の言葉を見せても、当たり前でしょう、と思うだろう。何よりも、その不一致に本人は気づかない。本人は一貫していると思っているし、「良い」側だと信じている。
耳あたりの良い言葉だけを身に纏う。それが「身体」そのものになっていないと、日々の一挙手一投足に現れていないと、人生そのもので体現されていないと、本当に身に纏っているだけになる。
言葉上はそうだと同意していても(本人の意識上では本当にそうだと信じていても)、彼らの「体感」「身体」がそうなっていないために、言行の不一致が起きやすい。
「体感」「身体」から言葉を発すれば一致することが多い。
でも、それが言葉から出発してしまえば、その言葉・記号に絡め取られるだけになりやすい。
自身の中でもその不一致にモヤモヤしたりする。
あるいは、モヤモヤにさえ意識では気づきもしない。