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ヒト社会の行き詰まりについてのアプローチの参照資料、私的見解。
「ヒト」という「種」の特質はよくも悪くも「同じにする」習性があるってこった。
例えば、落ち葉を二枚手にもって見れば、それは「落ち葉」だけれど、実際に細部を見れば、形状は似ているけれど「全く異なる」ものだもん。
それを、「概念」で「同じ」にしつくしていくのが「テクノロジー」でもあるので、その「概念」と「実体」の「感覚」としての乖離を整えるために「どのように分離派的な行動をするか?」という辺りに、表現の目指すポイントが求められるともいえるのでは。
そして、現在進行形で起きている様々な「行き詰まり」に対応する、ひとつの側面からの解になりそうだと僕は感じて、考えている。
(山田五郎氏のウィーン分離派の項目を見ればよく理解できる、YouTubeで見つかるはず。※クリムトで検索すれば十分だろう)
その具体的な手法として、写真を使うとなれば、作為的な撮影方法自体を破棄した方がいいし、ヒト的な意識も外せるだけ外してしまった方が、表現の素材としては有効だろうと考えうる。
その料理の仕方(編集など)は「写真」自体の結論を中平卓馬氏がほぼ示してしまっているように感じているので、「写真」そのものを表現の手法として如何に活用するか?というポイントにそろそろ進んだ方がいいと、僕は考えている。
だから、最近見た「山田脩二」氏の「日本村 2022-2024」はその手本のようなやり方だったと見える。
デジカメで造作なく撮影し、そのまま何もしていないかのようなカタログ的な写真の配列で写真集が構成され、それが二部制、または別冊を含めて三部制になっている事が、かなり効いていると感じられるのだ。
そこには、現代アートの模倣的な「無理な形式的なジャンプアップ」は、まったく見られず(必要とされず)、アプローチの視座を変え、視点も変え、従来の「写真利用の形式」から「分離」することが可能だという、実際の例示を見出す事も可能だと思う。
もうひとつは「ヒト」も「ほかの生命体」も、生命体としてとらえるなら、地球表面に間借りしているだけの「等価的な存在」だという立ち位置にあれば、かなり様々な権威から表現は解放されうるはずだろうと、理想的な見解ももっている。
そのような見解から見るなら、養老氏の発言や、動的平衡の福岡伸一氏も、近い見解に至っているように受け取れるのだ。
そして、各学問分野についても、その線引きが強すぎると「専門性の壁」が、著しく生命倫理上の一般教養分野を破壊し、自ら、つまり「ヒトそのもの」を攻撃するに至るのは至極当然ともいえる。※衆愚と言いたくないだけ。
アートが"Ars"と言われたのは、その各分野においての「統合的な知」であったことを「ヒト」という「種」として、どこかに忘れてしまったのが、現在の野蛮性が跋扈する現象のポイントでもあるだろうし、そこには別の文脈で並走している「政治権力」と「文化の停滞」「経済と政治権力の結託」により「ヒト」社会の均衡を維持することが難しくなったともいえそうだ。
つまり、意訳すると、文化的行き詰まりが遠因となって、政治経済の権力に「人間社会」が付け入るスキを与えすぎた。と、見える。その隙を「戦略的に悪用された」ともいえるのではないか。
そこに、回復の余地があるか分からないけれど、「生命存在の等価性」を受け入れ、その特性を改めて見直し、あるべき場所に立ちもどるために、表現を使わなければもったいない事だろうと。
※生命存在の等価性を見出そうとするなら「福岡伸一氏の動的平衡」を参照すれば、理解ができる。どの生命体にも適用できるから。
その時、冒頭にもどるなら「同じ(同質性)」と「等価性(生命体の)」は、まぜるな危険だ。という事を付記しなければならないと昨今の「WW2」を見れば明らかだろうともいえる。
その時「写真家」というラベルは、あまり意味をもたなくなるだろう。
参照資料として、養老氏の話の抜粋を残すことにした。
※ほかにも重要な参照すべき人物は数人見出しているけれど、まだ整理できていない。
【参照:山田五郎氏「クリムト」:ウィーン分離派など】