「元共和州知事シュワルツェネッガー氏がハリス氏に投票へ 米大統領選」(毎日新聞より)から、本質的な価値判断が見えてくる、周辺事情について
まずは、毎日新聞の記事から。
(上の写真は関係ありませんが、個人的に好きなひとコマです、笑)
このアメリカという国は、難しいところだなぁと、つくづく外から見ていて感じるんだよね。多民族国家、人種のるつぼと云いながらも、その根本的な思考回路は「ヨーロッパ的階級制度」を、建国以来内包し続けているのだから。まだ、250年しか経っていない。ローマの1/4だね。
うまく行っているときは、素晴らしいパフォーマンスを発揮するのだろうけれど、どこかでボタンを掛け違うと、あっという間に現代アメリカのように混乱を呈してしまう。
二大政党制であるのも、根本的に理由があるのは理解できる。
そもそも、多民族で価値観が多様に過ぎるほどだから、欧州やかつての日本みたいに、政党が5や10あっても、その都度合従連衡ができる規模ではないからだろう。
まずは、大きな価値判断の傾向をヒトという生物が持っているから、その自然の作用を活用して、ふたつの政党を中心に選挙制度が成立しているのだろう。そうでないと、政党だけで100くらいは、連邦議会に存在してしまいそうだ。
欧州や日本はその逆なので、色々と二大政党制は難しいものだったんだろう。
日本で小選挙区制が導入されたときは、大きなチャレンジをしたと感じたものだったけれど、今や、二大政党制が日本では機能しないのではないか?と、考えるようになった。
今回の選挙は、そういう意味で「分水嶺」だったと思う。が、今後の推移がその結果より重要だということは間違いなさそうだ。
さて、前置きが長くなったけれど、そのアメリカの混乱も佳境を迎えているように見える。こういう記事を見ると、チャーチルが昔に云ったという「ひと言」が現実に再現されるか?とも気になる。
「アメリカは間違うが、最後に結局まっとうな判断をする」
※かなり、思い込んで意訳をしてしまった。たぶん正確には次のような発言だ。
“ Americans will always do the right thing, only after they have tried everything else.” –Winston Churchill
「 アメリカ人はいつも正しいことをする、他のすべてをトライした後に。」 – ウィンストン・チャーチル
記憶違いだと困るのだが、今回のアメリカ大統領選はそういう分脈で読むと、こちらも「分水嶺」にいるように見える。無関心でいられないのは、アメリカの政治権力構造の構成が、日本に大きく影響を及ぼすだろうこと。
いうまでもない事だけれど、現実的にはそうなる。
ある種の「最前線」に位置する東アジアの国々は、そういう意味でシビアな外交的なかじ取りを求められているともいえるだろう。
中世ヨーロッパでいえば、ヴェネチア共和国が如何にイスラム勢力と圧倒的な資源的不利の中で立ち回ったか?という歴史を覗けば、多くのヒントがあるようにも思う。その例示として、塩野七生氏の歴史小説群は、現代に読むのにぴったりだろう。
ただ、Wikipediaレベルであれば、小説と歴史学問はヒエラルキーがあるといいたい方々が多い。しかしそもそも、役割が違うものの上、歴史小説は「人類の行動の平時のパターンと緊急時のパターンをあぶりだし、人類とは何者か?という表現活動である」
一方、歴史学者がまとめるものは、その表現の基となるものであって、きわめて正確性を求められる。しかし、歴史上に求める「真実」は存在しないことを理解しているのだろうか?
【歴史学の人類への貢献についての脆弱性について】(現代史を除く)
歴史小説を書く作家は、学者の論文構成なみに史料にあたり、調査をしつくして、その上で、一般の我々に通じる言語感覚と、また受け入れやすい「アクセント」を付けてストーリーを再構築している。
そもそも、歴史の史料というものは、どれが正しいというものは「存在しない」。勝者が敗者の歴史を廃棄し、自らの権威付けを行うのが「正常な人類の記録の仕方」なので、事実関係や真実とはかなりほど遠いのが「歴史学」の側面であるし、近現代の生き証人がいるものは検証可能だが、それ以前の歴史文脈は、おおざっぱに言えば「改ざんされた勝者による編集履歴」ともいえる。
司馬遷の「史記」という有名な歴史書がある、だが、司馬遷はあらゆる脚色を一切、拒否したために、漢の武帝の時代に処罰を受けたのだからね。(そうとう端折ったが)
司馬遼太郎氏のネームが「司馬遷に遼く及ばない」という自尊心からつけられたことは、一般的によく知られたことだろう。それくらい歴史学には事実すら存在するか怪しい側面がある。義務教育で教わる教科書の歴史は、ほぼ、ストーリーだと受け止めておけば十分だろうし、真実性の担保においては歴史学者も、歴史小説も、広い視座からとらえれば「大した違いはない」のだから。
現代史については、扱いが異なるけれどね。検証可能な肉声実記述の人物が紐づけられる可能性は、現代史では大きなアドバンテージだ。
だから、現代史においては、自らの立ち位置に寄せるための、解釈の確定を「権力者」が望むのであって、事実については相当にスポイルされる。
歴史学の本丸は、実は、「人類」というちょっと変わった「動物/生命体」の、習性や特質が時代に関係なく、多様に立ち現れていることを確認する作業だと、私はとらえている。それを忘れたときに、歴史は「木を見て森を見ず」という、パラドクスに陥るのだから。
さて、脱線したが、元のテーマに戻ろう。
今回の日本で選挙結果が少し色を変えたことは歓迎したいと私は感じている。
一方、アメリカは意外な揺り戻しや、反動によって先進国の中でも構造的に硬直状態にある現在、この大統領選は、アメリカらしさやその価値観のフィールドの広さを示す事ができるか、とても興味深い。その結果は、少し色を変えた日本に再度影響を及ぼす可能性が高そうだから。
■2024年11月3日、文化の日、追記
「木を見て森を見ず」という。改めて。
専門家ほど、本来はその分野の研究の本質をとらえ、「普遍性のある価値の断片」を捉えてその研究の成果として展開するものだろうと、私はずーっと思っていたし、ある程度そういう認識だった。
しかし、実際は違った。専門家ほど「トランプのように「権威」という「壁」を構築したがる」傾向にあるという現実に愕然とする。
専門家は、その一般教養をパイプにして他の専門分野とエフェクティブに交流して、オープンに立ち戻るべきなのではないだろうか?まるで派閥政治の因習と似たような構造を専門業界に見るようなことは、とても個人的な感性として受け入れがたい。
この数年、そういう閥族的専門性に疑問を呈し続けているが、なんとも徒手空拳である。
そしてそれは、この文化圏ではできないのかもしれないと、最近は感じつつある。
ジェネラリストとスペシャリストの優劣の論争がかつてあったように記憶している。結論は到達点は同じ価値であるというものだったようにぼんやり記憶している。どちらかが優位だという場合、たいていは片方の「概念」の定義のピントがずれているし、元来、互いの立ち位置を尊重しながら成立するのが、問題解決の仕事だろうはず。
その間の無駄な部門間抗争や、主導権争いが如何に内向きの村落志向にとらわれているか?現在も、内向きの「概念」(実経験に基づかない机上の空論)に、侵され続けているか?思い知った感はある。
率直に言えば、世間の価値観からして「そんなどうでもいい」ことに踊らされる機会の多いことに、嫌気がさしたりする。
そのあたりから一定の距離を確保することが、今は肝要だと感じている。
ポジティブなアクションとして、私はそれを捉えているから何の問題も起きていないのだけどね。
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