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映画「イニシェリン島の精霊」で考える趣味と孤独

「イニシェリン島の精霊」という映画を早稲田松竹で見ました。スリービルボードという映画を撮ったマーティン・マクドナー監督の映画で、綺麗な映像と引き込まれるストーリー、クスッと笑ってしまう小ネタが含まれた、とても素敵な映画でした。

ブチギレおじさんのいがみ合い

映画では、アイルランドの孤島で二人のおじさんがIRAまさりの怒りをぶつけ合い、指を切り投げつけ、刑事を殴り、飼っているロバちゃんが死んで怒り狂い、家を焼き払い「おいおい、このままどこまで行っちゃうんだ・・・」という展開が、壮大な景色をもつ絶海の孤島イニシェリン島で、たまにクスッと笑える小ネタ満載かつシリアスにお届けされます。事情があって自らの指を切ろうとする老人コルム(その時点でヤバイ)の飼い犬がまさしくハサミを取ろうとする老人からそっとハサミを遠けるシーンなど、なんとなく不謹慎で笑って良いのか困る小ネタが良かったです。

映画の時代背景としてアイルランドとイギリスの戦争が語られるため、二人のおじさんの仲違いを戦争の比喩として解釈することもできると思います。私は最近読んだ本の内容と関連して、SNSを中心とした現代社会の象徴としての二人のおじさんの関係、エコーチェンバー的に狭い世界に閉じこもるコミュニティがイニシェリン島なのでは、と思いました。

最近読んだ本「孤独と趣味について」

谷川嘉浩さんの「スマホ時代の哲学」という本を最近読みました。日常的にSNSで他人となんとなく繋がることや、Netflixなどのサブスクサービスを使って退屈を埋めることで、変化の大きい現代社会の退屈に対抗する現代人。そんな我々に必要なものは自分と向き合うために必要な「趣味」であるというような話が書かれています。また、まだ読んでないですが面白そうだなと思った宇野常広さんの「ひとりあそびの教科書」でも現代社会で自分と向き合う「ひとりあそび(趣味)」の話がされているようです。我々は不安定なこの社会をまともに過ごす手段として、孤独と向き合うための「趣味」が必要なのではという考察です。

イニシェリン島に出てくる二人のおじさんの一人コルムは作曲や思索が好きなおじいちゃんです。趣味のある人です。一方、俗物として描かれるパードリックは毎日昼の2時からコルムと一緒に島のバーに行ってどうでも良いことをおしゃべりする(コルムは馬のクソの話を2時間されたと言っています。パードリックは「いやロバのクソの話だ」と返します。。。)のが唯一の楽しみのような人物です。彼は趣味もなく、パードリックとの会話をとても楽しみにしています。また、彼はそんなに寂しいのかというくらいの寂しがりやで、孤独です。笑ってしまうくらい。ただ、パードリックは普通の良いやつでもあります。

ある日コルムはパードリックとおしゃべりすることをやめ、作曲・思索の時間を取りたいと言い出します。この二人は、上記の本に書かれている自分と向き合う趣味を持てる人(孤独と向き合う人)、自分と向き合う趣味を持てない人(孤独と向き合えない人)にあたるのではないでしょうか。

他人事とは思えない趣味のないおじさん

寂しがりやのパードリックの姿を笑ってしまう一方で、皆さんも「私もこういう一面あるかもな」と思ってしまうのではないでしょうか。私たちの生活は毎日SNSでのニュースを眺めることや、良いねや絵文字などを使った相互承認を求めるコミュニケーションで溢れています。それを求めています。それは楽しいことでもありますが、それだけで人生を満たしていると(果たしてこのような時間を過ごす人生に意味があるのか?)というコルムが直面した根源的でシリアスな疑問に、はたと直面してしまうことは誰にでもあるのではないでしょうか。特に、他人への羨望や誰かを批判するような気持ちを自分で感じる時に。

この映画に描かれる1920年代のイニシェリン島の人々と二人のおじさんは現代日本の我々とまったく違う社会環境にいるにも関わらず、現代のSNSでコミュニケーションを求める我々の社会を見事に描いているように思いました。また、映画では一方的にコルムが正義のように描かれるわけではなく、コルムが「モーツァルトは17世紀の作曲家にも関わらず彼の作品は現代も愛されてる!」とか、芸術(趣味)の素晴らしさを語るシーンで、これまた素晴らしいキャラクターのパードリックの妹に「モーツァルトは18世紀の作曲家よ」と正されるのも秀逸です。

それでも人が恋しい

映画の最後には、孤独を求めコミュニケーションの断絶を希望するコルムと、結果的に自分の愛するロバがコルムに殺されてしまい怒りでコルムの家を放火しても収まらないパードリックの会話が行われます。「これでおあいこ」と言うコルムに対して、「このいざこざは墓まで続く、終わるよりもそちらの方が良い」というパードリックの会話です。他人に断絶されるくらいなら自分の求めるコミュニケーションでなくても良い、それでも他者や世界とのコミュニケーションを求め続けてしまう悲しい現代人の姿がそこにあるように思えました。

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