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立派な共依存の記憶とその消化
今は食品スーパーが建っているかの地に、私の通った中学校はありました。
これまでフタをしていた当時の記憶が、一瞬気持ち悪いくらいの現実感を伴って、蘇っています。
あの中学校に、私は確かにいた。
ただし、極度の共依存が始まってもいたんです。
私は当時の同級生に、望まれてもいないのにもかかわらず。
相手の趣味嗜好、あるいは性格も含めた全人格的なところに、完全に合わせこむ人間になっていました。
言ってみれば、相手のためだけに、私は存在したんです。
私という人間は、物理的な殻を被った見かけだけでした。
そのことを辛いことと、当時は意識の上で認識はしていませんでしたが。
そんなことをしなくても生きられることを知った今思えば、たいそう辛いことだったと思います。
実際、意識はしていなくても辛かったことは辛かったから、その記憶にフタをしたに違いありません。
辛いことを、思い出せないようにしていたわけです。
その辛さが消化されたことにより、記憶を覗いても大丈夫になっては。
蘇ってきたことになります。
共依存、というかその原因である機能不全家族に生まれていなかったら…。
それは、想像の中の想像の世界になってしまう気がして、あまりうまく考えられませんが。
部活の野球はもっと一生懸命やっていたのではないかと思います。
いや、野球だけでなくて、勉強もそうだと思う。
関連して、一つ記憶としてあるのは、試験で強烈に悪い点数を取ったこと(全教科合計の話)。
今の自分からも、今の私を知る他者からも、きっと考えられないくらい…。
私は勉強は嫌いでないし、苦手だとも思っていません(自分が一番ということではなく、「そこそこできるな」というくらいのことです)。
それが、順位で言えば下位10%ほどになる点数を取るということは、たぶんなかっただろうと思う。
今思うと、自分でも衝撃を受けたあの試験結果は。
意識はできなかった苦しみを抱えた中で、なすすべなく究極に無気力になるしかなかった当時の私を象徴する出来事でした。
(以上は、あくまで「私の場合は」の話です。試験結果が悪い人がおしなべて無気力だと言いたいわけでもなければ、それが良いことが誰にも彼にも良いことだとは考えていないことを、お断りしておきます)
繰り返しますが、この中学校の頃が良い記憶にはならないものの。
それを覗いても大丈夫ということは、悪い記憶だとの認識もありません。
ただ単に、「そんなだったなぁ」という感じです。
これは経験者として、ハッキリ言えることだと思っています。
EMDRの効果に、他なりません。
ですが、さりとて。
「記憶が戻りました。良かった良かった」だけで終わっては、意味がないことも確かです。
過去が整理できたら、現実をしかと見て、それらが将来の肥やしとなることが何より大事。
もちろん、共依存だって終わっていることが前提。
ただ、それは。
自然にそうなっていきそうにも思います。
実際、もうなりかけてはいて。
どうしてもちょっと、ただ費やすだけの時間も要するということの気もします。
お付き合いいただき、ありがとうございました!