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許すとか許さないとか、どうでもよくなった話
私のアダルトチルドレン的な、人や社会全般を恐れていた頃と比べると。
今は、なにも怖いものは無い気がするんです。
そして、それはそれでいいことだし、望んでいたことでもあるのですが。
そのこと自体、つまりは怖いものが無い事自体が怖い気がする、ここ数日です。
そんな中にあって、一方では自分の心から自然に湧き上がってくるところからも。
本格的な仕事再開というのを、常に念頭に置く時間が増えています。
仕事の詳しいことについて、ここに書けないことについてはすいませんが…。
ただ、これは今だからはっきりとわかる、自分の心の内としては。
やっぱり社会を発展させ、人の暮らしを前進なり改善させていきたいです。
日本では毎日、どこかで知らない誰かさんが言っていそうな、まるでありきたりなことを。
私も言っているかもしれません。
でもありきたりということは、それだけたくさんの人も同じ想いなのだろうとも思う。
もちろんありきたりだから正しいとかいうことでもないですし、そんな心の内は、周りの誰かさんに合わせるようなものでは全くない。
ただ、そうであっても私は、ある意味たまたま。
たいそうたくさんの人と同じ心の内を、持つに至っただけの気がします。
そしてその上で、自分のそうした心の内に沿うという観点からは。
今の仕事に本格参加するのが、おそらくベスト。
他の可能性と言うのは、ほとんど考えていないのですが。
一方で、以上とは別に。
今となって自分の認識が、小さくない程に変わったように思うことがあります。
「親を許すか許さないか問題」です。
私自身は「許さない」としいう結論を下さざるを得なかったと、これまでも書いてきた問題です。
アダルトチルドレンの多くの人が直面する、壁のような問題でもあると思います。
それがどう変わったのかと言いますと…。
許すとか許さないとかは、どうでもいいことになりました。
単に、嫌いです。
関わりたくない。
今はこの本心が、毅然と存在するだけ。
ただ、この変化によって、大事だった問題もわかりました。
それは、「嫌い」とか「関わりたくない」という気持ち。
これを自分で認められなかったから、もしくは認めてはいけないことになっていたから。
私はアダルトチルドレン的苦しみを、大いに抱えていたということです。
自分の心の内を、認めてはいけない。
それが常態化しては、自らの存在価値を感じられない現実世界はあまりにも辛く。
逃げるように、私は解離した…という感じかなと思います。
そもそも、認められなくしたのは親だったのですが。
とにかく、嫌いでも、関わりたくないでも、いいんです。
今は堂々と、そう思っている私。
そうなると許すとか許さないとかは、もう全然あっち方向の話になってしまいました。
お付き合いいただき、どうもありがとうございます!