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二宮尊徳先生から考える「他責ではなく自責」

久しぶりに、ではありますが二宮尊徳先生の功績や教えをまとめた『報徳記』(致知出版社 富田高慶原著、佐々井典比古訳注)を読みました。
 
ここ数年の話しではありますが、二宮尊徳先生に対する興味が高まり、折に触れて著書や解説本を読んでいます。著書『リーダーは日本史に学べ』でも尊徳先生を取り上げさせて頂きました。
 
純粋にその教えに共感することもあるのですが、尊徳先生の教えこそが明治維新以降の経済人、それも渋沢栄一、豊田佐吉、松下幸之助、稲盛和夫など、そうそうたる経済人に影響を与えたことに大きな興味をもっています。特に豊田佐吉に与えた影響は大きく、尊徳先生いなければ、トヨタ自動車すらなかったかもしれないのです。
そう考えていくと、尊徳先生の功績とは、単にその時代の地域復興にとどまるものではなく、近代以降の日本経済が成長するための経済思想を提供した、とも言えるのではないでしょうか。大事な知的資産なのです。
 
しかし、現代では「二宮尊徳って何をした人?」という人が多いのは残念なことです。ただ、それは尊徳先生の教えを現代人にも分かりやすく落とし込んでいない発信側の問題もあると思います。
そんな想いもあり、今回の著書でも尊徳先生を取り上げさせて頂きましたが、また今後機会があれば、更に尊徳先生を深めたものを世の中に届けたい想いがあります。
 
さて、前置きが長くなったのですが、今回『報徳記』を再読して気づいたことです。
それは、尊徳先生の考え方や言動には、「他責ではなく自責」が一貫して貫かれていることでした。
「あれ、こんなに自責の人でしたっけ?」と思ったほどでした。
 
地域が荒廃し、衰退している時に、
主君は、家老などの管理者や民衆が悪いのではなく、自分の政治が問題と思い、
管理者は、主君や民衆が悪いのではなく、自分達の管理が問題と思い、
民衆は、主君や管理者が悪いのではなく、自分達が勤勉でないことが問題と思い、
 
各々がその「他責ではなく自責」を出発点として務めることで、地域や社会がよくなると考えているのです。
そのため、他責の言動に直面すると、尊徳先生は激しくその考え方を責め、改めることを求めています。
そうした先生の教えを受けて、他責で考えていた人も考えを改め、自分の立場でやれることを全力で取り組むようになるのです。
 
この世界観、とても共感します。その上でですが、この世界を実現するためには、主君も、管理者も、民衆も同じように「他責ではなく自責」でなければ、全体としては本当に目指す成果は実現できないと考えます。
主君や管理者は他責でありながら、民衆が自責だとするならばどうなるでしょうか。政治や管理に問題があるにも関わらず、民衆だけが「苦しいのはあなたの努力が足りないのです」として苦しい思いをすることになりかねません。
案外、新自由主義というものも、そうした面もあったりしないでしょうか(私は必ずしも新自由主義を全面否定しませんが、間違って運用されると)。
 
こうした世界観を実現するために必要なこと。それは、ありがちかもしれませんが、教育しかないのかもしれません。それは学校教育だけでなく、生涯教育としてですが。
主君、管理者、民衆(現代的な言い換えは省略しています)、いずれになるにしても、自責に基づいた考え方や行動を学ぶ機会が必要ではないでしょうか。

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