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知るべき歴史は1941年12月から45年8月だけではない
1945年8月15日から79回目の8月15日が近づいてきました。1945年に生まれた方でも今年79歳となります。もし1935年生まれであったとしても終戦時は10歳となります。
残念ながら、戦争中の記憶がある世代はかなり少なくなっています。
でも、だからこそ、あの時代に何があったか意識的に知り、これからの時代にも活かすべきではないでしょうか。なぜなら、あの時代、多くの罪がない人たちが死に追いやられ、国家全体が破滅の淵をみたのですから。
戦争での悲劇というと、太平洋諸島での玉砕や沖縄戦、東京をはじめとした大空襲、そして広島、長崎の原爆投下など、日米が戦った太平洋戦争に焦点があたりがちです。
もちろん、太平洋戦争で亡くなれた多くの方々のことは忘れてはいけません。私自身、曾祖母が原爆で亡くなった他、親族で亡くなった人は少なくありません。また、使命感をもって多くの尊い命が戦場にて殉じたことについては、一個人としては敬意をもっています(これと国家の過ちは別の話しです)。
こうした歴史は忘れてはいけません。
ただ、知るべき歴史としては、1941年12月から45年8月までの太平洋戦争だと不十分だと考えます。
なぜなら、太平洋戦争とは、1931年の満州事変、1937年の日中戦争という、日本の中国や周辺諸国への侵略が引き起こした戦争だったからです。もっと長い時間軸では、日露戦争以降の満州経営や、第一次大戦時に中国での権益を拡大しようとした21か条の要求が引き起こしたともいえます。
中国や周辺諸国に勢力を拡大しようとした日本の方針は、徐々に覇権国となり、市場を拡大しようとした米国と対立するものでした。その緊張感が1905年の日露戦争終結後に高まっていき、1941年に両国の戦争、つまり太平洋戦争につながってしまったのです。
それは後付けの結果論だろう、という人もいるかもしれません。しかし、早い段階から日米関係の緊張に警鐘を鳴らし、改善を図ろうとした政治家や財界人もいました。
例えば、原敬(1856~1921年)です。大正時代初期に初の政党内閣の首相となったこの政治家は、その先見性から米国が覇権国となることを見越し、日米関係強化を訴えていました。そのため、中国への勢力拡大は抑えるべきだと考え、21か条の要求にも反対していました。
例えば、渋沢栄一(1840~1931年)です。日本人移民の排斥運動などで日米関係が悪化することを懸念した栄一は、日米合同の会議体により、日米の連携強化を図ろうとしました。中国との親交も深めています。
しかし、原敬は暗殺され、また渋沢栄一は満州事変があった年に残念ながら亡くなりました。その後は、日米関係を改善しようとする動きは少なくなり、ひきずられるように満州事変、日中戦争と続き、最終的に太平洋戦争に至ってしまったのです。
歴史を学んでいると、「長期的視点なき短期的利益」を追い求めた結果、大きな流れのなかで衰退、破滅の危機をみることがしばしばあります。
日本の1945年8月までに至る歴史とは、そのような教訓として語り継ぐべきだと考えます。