「南無阿弥陀仏を唱えれば」と説いた法然上人が現代に生きていたら
もう1ヵ月前のことですが、上野の東京国立博物館で展示されていた「法然と極楽浄土」に行ってみました。(現在は展示されていません)
今年は法然上人が浄土宗を開かれてから850年にあたるため、全国各地で記念イベントが開催されており、この展示会もその一環となります。
法然上人が開いた浄土宗とは、「南無阿弥陀仏」と念仏すれば、極楽浄土に行くことができるという、比較的現代の私たちに親しみがある仏教観をつくった宗派と言えます。浄土宗が850年のキャッチコピーとして「お念仏からはじまる幸せ」を掲げているのが象徴的です。
ここで少し質問なのですが、「南無阿弥陀仏」の「南無」とはどのような意味でしょうか?
実は、この「南無」とは、「おすがりします」という意味になります。そのため、「南無阿弥陀仏」と唱えることは、「阿弥陀仏におすがりします」と唱えていることなのです。
そのように唱えれば、極楽浄土に行くことができる、というのが浄土宗の教えなのです。
現代人の私たちからすると、「南無阿弥陀仏と唱えただけで極楽浄土に行けるなんてことはないだろう」と一蹴するかもしれません。
しかし、浄土宗が生まれた時代(平安末期~鎌倉時代初期)は、戦乱や飢饉、疫病などもあり、一般大衆は生きていくのが精一杯な時代でした。また、心の平安をもたらすための宗教も、貴族などの一部の支配階級のためのものでした。大衆にとって、この世にも、あの世にも救いがなく、心の平安はなかったのです。
そんな時代に、法然上人は一般大衆にも心の平安をもたらすために、「「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に行けるのですよ」という教えを説いたのです。
このことは、宗教が一部の支配階級から大衆に開かれたという意味で、まさに日本の宗教改革だったと考えます。
それから850年。もちろん、「「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる」ということが通る時代ではありませんが、多くの人に心の平安がもたらされている、ということでもないでしょう。
法然上人が現代に生きていたなら、どんな風に発信されたのか、ということも考えてみると面白いかもしれません。