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「エコである」ことについて

『エコ(エコロジー)』って難しい。本当に難しい。 

ここのところそんなことをよく考えるので、考えたことを書いておこうと思う。

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先日、コーヒーカルチャーマガジン『STANDART』の開催したトークイベントに参加してきた。

トークのテーマは“コーヒーのアップサイクル”。コーヒーを淹れたあとに残るカス(出がらし)を有機肥料に転換する活動を行っている『manu coffee』(福岡)の福田雅守さんと『STANDART』編集長・室本寿和さんによる対談だった。

日々コーヒーを淹れ、カスを捨てている身としては、とても興味深い話だった。現在、manu coffeeで出るコーヒーカスはすべて有機肥料『マヌア』にアップサイクルしているそうだ。その取り組みの詳細は『STANDART Issue 8』や下の記事で紹介されているので、ぜひ読んでみてほしい。

日々発生するコーヒーカスを「捨てなくていい」というのはとても気持ちが良いし、「コーヒーカスから生まれた肥料でコーヒーノキを育てて、コーヒー豆を収穫したい」という福田さんたちの目指す循環型の世界像にはとても共感する。

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ただ、そういった「共感」や「気持ちよさ」とは別に、僕はこういったエコロジーに関する話ではいつもどうしても気になってしまうことがある。それは、「そのエコな活動は本当にエコなのか」ということだ。たとえば、今回の取り組みでいえば、「コーヒーカスを有機肥料に転換する」という”エコな活動”をするためにも二酸化炭素を排出するし、水も使用する。それらの環境負荷をトータルで考えたときに、”その活動は本当にエコなのか”ということが気になるのだ。

『海洋プラスチックごみ』の問題からプラスチックごみの削減が大きな話題になっている。この問題は解決しなければならず、なんとかして海(自然界)にプラスチックが流れるのを止めなければならない。でも、だからといってプラスチックを削減するためにもし紙を大量に使うことになれば、今度は森林伐採や砂漠化が問題になるし、プラスチックという軽くて薄い材料を使うことで削減できている輸送時の二酸化炭素もあるはずだ。また、以前、農家の人に聞いたのだけれど、野菜は収穫後プラスチックフィルムで包むことで鮮度を長く保つことができるそうだ。もしプラスチックフィルムを使わないとなれば、鮮度が早く落ちてしまい、食品ロスが増えることも考えられる。

ある問題の解決が、別の問題を引き起こす可能性があることを常に意識しておく必要がある。

哲学者・経済思想史学者の斎藤幸平さんは著書『大洪水の前に』(堀之内出版)の中で、19世紀に大きな問題となっていた土地疲弊(土地の栄養を農業が使い尽くしてしまう問題)に関連して、次のように書いている。

歴史的にみれば、地力疲弊の問題はハーバー・ボッシュ法によってアンモニアの大量生産が可能となり、窒素肥料の生産量が飛躍的に増大することによって「解決」されたといえる。だが、化学肥料への過度の依存は土地を硬化させ、排水性や保湿性を失わせるばかりでなく、害虫による被害を増大させることにもなる。・・(中略)・・別の環境問題が生じている。・・(中略)・・せいぜい別の問題へと「移転」されているに過ぎないからだ(Clark/York 2008)。同様の亀裂と移転をめぐる問題は、化石燃料やレアメタルといった採掘産業にも当てはまるだろう。価値が人間と自然の物質代謝を考慮することができない以上、持続可能な生産の実現は常に大きな困難に直面する。[195頁注釈より]

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僕は学生時代、地球惑星科学を専攻していたのだけれど、学部の授業で地質学の教授は「人為的地球温暖化説」に異を唱えていた。すなわち、人間の出す二酸化炭素の増加が地球温暖化の(一番の)原因だとするのは間違いであると主張していた。この議論についてその後追いかけてこなかったのだけれど、調べてみると2017年に日本経済新聞が下のような視野の広い記事を掲載していた。

記事にもあるように、温暖化どころが寒冷化の危険性を唱えている科学者もいる。もし「地球寒冷化説」が正しいのだとしたら、いま進めている温暖化防止策は逆効果になってしまう可能性すらある。

僕は専門家ではないので、どちらの説が正しいのかについての意見は持っていない。ただ、「人為的地球温暖化」(最近は「地球過熱化」と呼ぶ動きもあるそう)は(主流であることは確かだとしても)決して科学的に確固たる立証ができているわけではなく、科学者の間でも意見が分かれる問題であるということは僕たちも知っておくべきだ。

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僕はこの文章で「エコ活動なんて意味がない」と言いたいわけではない。そうではなくて、エコが「良いこと」であるとしても、その活動の結果には常に慎重に、謙虚に向き合うべきだと思うのだ。「良いこと」であるがゆえに見えずらくなったり、批判しずらくなってしまっては、本質からずれてしまうことがある。

冒頭のトークイベント(と打ち合げ)において、僕の疑問に対しての登壇者のおふたりの返答はとても誠実だった。(発言内容は僕の記憶の限りです)

「たしかにトータルで考えた環境負荷の検証はしていない。もしかすると(環境問題の立場からは)意味のないことなのかも知れない。でも、考えすぎず、なんとかしたいという想いに従って動いたからこそできた面がある。」(福田さん/manu coffee)
「トータルでエコロジーを考えることは大切だけれど、実際に問題を解決するためにはとりあえず何かをやってみる必要がある。取り組みがある程度の規模にならなければ、検証してみることもできない。」(室本さん/STANDART)

その通りだなと思った。放っておいても問題は解決しない。であれば、とにかく何かやってみる必要がある。そして、その結果を検証し、更なる取り組みを続けることが大切なのだと思う。

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最後に、度々言われることだけれど、「地球環境問題」というのはあくまでもその頭に「人類にとっての」という条件が付くことを忘れてはいけない。

地球は誕生以来、恐竜の時代も、灼熱の時代も、氷河の時代も経験してきていて、気温が数度上昇しようが、プラスチックがばら撒かれようが、人類が絶滅しようが、地球にとってはどうでもよいことなのだ。人類がどうなろうとも、これからも地球は存在し続け、数十億年後に巨大化した太陽に飲み込まれてその存在を終える。

「地球を守ろう」とか「自然を大切に」というのは、「人類がこれからもこの地球上で生きていけるように、地球を守ろう」という意味であって、つまりは人間のエゴなのだ。

エゴであることを忘れてしまうと、自分が気持ちよくなるために、良い人間でいようとするために、環境問題でパフォーマンスをすることになりかねない。これは資本主義社会ではなおさらだろう。企業が金儲けのエゴを隠すために、環境問題でパフォーマンスするということになりかねない。金儲けをしたいことも、これからも地球で生きていきたいことも、どちらも人間のエゴだ。それを地球のせいにしてはいけない。

エゴをエゴと認めたうえで、資本主義の問題も、地球環境の問題も考えていかなければいけないと僕は思っている。

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