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10月27日 「テディベアの日」の裏話

☝︎
以前にも「テディベアの日」のルーズベルトについてまとめましたが、今回は元黒人奴隷で、ハンターのホルト・コリアーさんについての追記と、その他、クリフォード・ベリーマンさんなどのおさらい。

はじめに

テディベアの日の由来でよく言われている「小熊の命をすくったセオドア・ルーズベルトさんのやさしい気持ち~」と言うのは、僕は否定しています。ですがもちろん10月27日のテディベアの日をお祝いしてる人への苦言ではございません😅
テディベアには罪はありませんから。
テディベアーズ・デーは『テディベアを通じて相手に思いやりや気持ちを伝える日』に、異論はないです。(なにか「平和や人権について考える日」などの方がより良かったようにも思いますが...)

ぼく個人的には、テディという名称の由来は彼からだとしても、ドイツのマルガレーテ・シュタイフさんの方が、彼女が志した子ども達や女性、障害者に対する思いやり、信念、業績などを考えると、その彼女の誕生日の方が相応しいかなと思ってます٩꒰*´◒`*꒱
本当にゼロからテディベアを生み出した人ですしね。しかも障害を乗り越えて。

さて
セオドア・ルーズベルトは明治時代の日露戦争の停戦を仲介して、その功績でノーベル平和賞を受賞しました。ですが一方で「白人は他の人種よりも優れている」と考え、アフリカ系アメリカ人の権利向上のために、十分な取り組みを行わなかったと批判もされています。

作り話によるプロパガンダ?

一般的に広まっているテディベアの名前の由来になった逸話は、セオドア・ルーズベルト大統領がある日、クマ狩りに行ったが一頭も仕留めることができず、お付の者が子グマを捕まえてきてその熊を仕留めるよう提案したところ、ルーズベルトは撃たなかった。ここから大統領の「慈悲深くスポーツマン精神にのっとった心がけと」いう評判が定着しました。そして、大統領とクマの社説漫画が描かれ、それを見たおもちゃメーカーがクマのぬいぐるみを製作し、彼のニックネームの“テディ”をクマのぬいぐるみの商品名にした。
これがアメリカのテディベアの始まりです。

+LISTVERSE  
10 Fascinating Facts About Bears
by Mike Devlin
fact checked by Jamie Frater


だが実際は、、、
1902年11月14日、共和党のルーズベルトはミシシッピ州知事のアンドリュー・ロンジーノの招待でシャーキー郡に5日間の熊狩りに出掛け、知事が大統領を楽しませようと、南北戦争で軍人として活躍した元奴隷出身のホルト・コリアーという黒人のハンターをガイドとして雇いました。たくさんのクマを仕留めた経験があったコリアーは大きなツキノワグマを追い詰め、大統領にとどめの一発を撃たせるために必死になって探しました。
その間ルーズベルトは痺れを切らして先にキャンプへ帰ってます。😯
コリアーはなんとしても大統領に満足してもらいたいと、ついに大きな熊を追い詰めました。大統領が再び狩場へ来るのを待ちますが、熊がいつ逃げ出すか分からないので銃床で熊の頭を何度も叩きのめして、半死半生にしてから縛り上げました。熊の体重は235ポンド(約107kg)に達していたそうです。

1907年 61 歳のホルト・コリアー

ホルト・コリアーはミシシッピー州で奴隷として生まれ、彼はアメリカ連合国(南軍の奴隷制度を推し進める側)のために、制服を着て自らの選択で奴隷制廃止を主張するアメリカ合衆国(北軍)と戦った黒人軍人でした。

ルーズベルトが現場に到着したとき、すでにクマは半死半生の状態。ルーズベルトの狩りの記録には、「情けをかけた」というような記録はこれっぽっちもないとのことですが、その点、彼は抜け目がなかったので、その場にマスコミも大挙してかけつけていたため「アメリカ国民に自分を印象づけるまたとないチャンス」と考え、作り話を書かせたのでした。
そこで『瀕死の小熊の命をすくったルーズベルのやさしい気持ち』という有名なエピソードにつながっていくわけです。
実際はルーズベルトは背中を向けたとたん、クマを安楽死させるよう命令して、他の者がナイフで熊の喉を掻っ切ってとどめをさしてます。 (記録あり)
ま、「その熊を楽にしてあげろ」という違った優しさはあったのかもしれませんね😜

ルーズベルトが大統領になれたのは、選挙ではなく、前任者のウィリアム・マッキンリーが暗殺された結果だったため、彼が大統領としてふさわしいかどうか疑問の声もかなりあったそうで、どうにかして人気が欲しかったんでしょうね。ʕฅﻌー`ʔ.。o

The Legend of Holt Collier

ちなみに
ルーズベルトは、元黒人軍人のコリアーの能力に大いに感銘を受けてコリアーのことが大変気に入り、1907年のルイジアナ州の熊狩りの際に、再びルーズベルトのサポートとして雇っています。
ミシシッピ州のホルト・コリアー国立野生生物保護区は、彼にちなんで名付けられました。彼は 1936年に亡くなり、ミシシッピ州グリーンビルに埋葬されているそうです。
-Wikipediaより-

ワシントンポスト

さてその最初の熊狩りの話ですが、ここからの参考元は『American Teddy Bear  Encylopedia 』というリンダ・マリンズさんの著書より引用していまして
ワシントンポスト紙は、クリフォード・K・ベリーマンによる社説漫画「ミシシッピの線引き」を掲載し、州境紛争と狩猟事件の双方を書きました。ベリーマンは最初、熊を大きく獰猛な殺人グマのように描いてましたが、後に可愛らしい子グマに描き直しています(1903年)
悪名高いルーズベルト大統領でしたが、ベリーマンが可愛らしい子グマに描いた後は、彼の新しい漫画のシンボルを「ルーズベルトのクマ」と呼び、ベリーマンが大統領の漫画を描く度に、手元に小さなクマも描いてました。
この時はまだ「テディベア」とは呼んでいないですねʕ •ᴥ• ʔ

左: クリフォード自身を描いた絵で、最初に描いた獰猛な熊が可愛らしいクマに描き直させている。

1907年、クリフォード・ベリーマンはワシントン・ポストのチーフ漫画家としての地位を去り、ワシントン・イブニングスターで働きたいという野望を果たしました。彼はもちろん、彼のトレードマークである国際的に有名になった愛らしい小さなテディベアを連れて行きました。

下の2体がベリーマンベア

☝︎このベリーマンベアも日本でも人気で(ベリーマンベアコンテストがあるほど)あまり悪く言うとファンの方に怒られそうですが..😅
クリフォードはプロパガンダに協力した形になりましたね。自身も出世。
でも後にクリフォード・ベリーマンはワシントン・スターで、アメリカのいろんな大統領と政治について、何千もの社説漫画を描いてまして、ピューリッツァー賞を受賞しています。

ち な み に
ワシントン・イブニングスター(ワシントン・スター)とはワシントン・コロンビア特別区で発行された新聞。アメリカの首都の記録を担い、“保守系”の格調高い報道で知られていたそうです。リベラル系のワシントン・ポストと肩を並べていた有名紙ですが1981年に廃刊。
その廃刊をうけて旧統一教会の教祖の文鮮明が、『自由主義世界の首都を代表する新聞社が容共リベラルのワシントン・ポストのみというのは報道の公正さに欠けるだけでなく、アメリカの健全な世論形成に悪影響を及ぼす』として、新たな保守系新聞のワシントン・タイムズというのを作って現在も発信しています。
日本でもよく右寄りの識者が引用してるよね(笑) ワシントンポストでもなく、ニューヨークタイムズでもなく、名称がややこしいワシントンタイムズ🥴平気でデマだったり差別的なことも書く新聞です。

呼び名が「ルーズベルトのクマ」から「テディベア」へ

その後、テディベアと名付けられたきっかけは、モリス・ミクトム(ミットム)とう言うユダヤ系アメリカ人男性が、ニューヨークのブルックリンで小さなノベルティとキャンディの店を経営していて、そのミクトムの妻ローズは、店で売るためのおもちゃの熊を作っていました。
ミクトム夫妻はそのうちの1つをルーズベルトに送り、「テディのクマ」と呼ぶことを許可してくれるよう頼のみました。最初はルーズベルトはそのテディというあだ名を嫌がっていましたが、(おそらくルーズベルトの妻のエディスの助言により)許可しました。
そこからミクトムの作ったクマは大人気となり、彼は後にアイデアル・ノベルティー・アンド・トイ社というアメリカ最大のぬいぐるみ製造会社を設立しました😊
アイデアル社(IDEAL)のアンティークベアも今でも人気ですよね!

テディベアとして売り出された後に「裸」という意味のBareと、熊のBearとをひっかけて、風刺画などで「もし服を着ているセオドアが合衆国大統領なら、服を脱ぐとどうなる
か」答えは「Teddy Bear熊 (Bare裸)だ」と揶揄される記事も多くなり、ルーズベルト自身は妻のエディスにテディと呼ばれることに不満を述べています。そんな時エディスは「セオドアベア」と呼ばれずに済んでよかったじゃないの」と答えました。

アメリカ大統領歴代研究

⇧要するに「中身は無い」という揶揄ですね^^;

最後に

「テディベア」という名称は、最初の熊狩り(ハンティング)から、さまざまな繋がりがあるんですね🐻
もしも、熊狩りに誘ったミシシッピー州知事や、雇われたハンターのホルト・コリアー、風刺漫画家のベリーマンやキャンディ店のミットム夫妻とか、例えば誰か1人でも欠けていたり、そしてルーズベルトの熊狩り接待が普通に成功して、もしも違った未来になっていたなら、今頃は何て言うベアの名称になっていたんでしょうかね?そう考えると面白いですね。ʕ ´ᴥ` ʔ
名称が「セオドアベア」のままだったら、ここまで世界的な人気にはなってないかもしれませんし、テディという「どこか少年の面影、やんちゃな感じ」が良かったのかもしれませんね。

で、さらに面白いのが(もしも話ばかりで恐縮ですが😅)、もしミットム夫妻がクマのぬいぐるみを作っていなかったとしても、こんな話がございます。
それは、同時期にドイツでクマのぬいぐるみが作られていて、1903年のドイツ・ライプツィヒの見本市でニューヨークのデパートのバイヤーの目にとまり、約3000体のシュタイフのクマがアメリカに渡ってます(初輸出は失敗の記録あり)
そしてそして、1906年2月17日にホワイトハウスで開かれたルーズベルトの娘アリスの結婚式で、テーブルの飾り付けをどうしようかと悩んでいたホワイトハウスのスタッフが、たまたまニューヨークに行った時に、その頃ドイツからNYに渡ってきたシュタイフ社製のクマのぬいぐるみを見かけて購入したそうです。で、クマのぬいぐるみに狩人の格好をさせたり、ライフル銃を持たせたり、釣り竿を持たせたりして結婚式に装飾しました。
その時に出席者のある者から「それは何か?」と聞かれ、スタッフは返事に困って「テディズベア(テディベア)です」と答えた。という説もあるそうです。ʕฅ•ᴥ•ฅʔ。*:


シュタイフ社製のテティベアは好評を博し、1908年には100万体が製造されたと言われてます。

🧸
おしまい


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