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多様な学びの場と学校教育(12)

他人を思いやる心をなくしつつある?


今日も私のnoteにお立ち寄りいただきありがとうございます。


多様な学びの場と学校教育について考えてきています。


いろいろなところ、いろいろな場面で、理不尽な要求をする人が増えてきているということをお話ししました。

明らかに、自分さえよければ良い、という行動をする人が増えてきているように感じています。

それも、ありとあらゆる場面で、確実に増えていると、私は感じています。


ここには「自分だけが損をしている」ということではない、別の感情が存在するようにも感じています。


記憶に新しいところかもしれませんが、回転ずしやコンビニの食料品のところで、迷惑行為をする若者がいました。

また、鉄道の乗務員の方に怒鳴り散らしたり、暴力行為を働いたりする人がいたりしています。

撮り鉄と言われる鉄道ファンが、駅員の方の静止も聞かずに、写真撮影のために、無茶なことをして駅員の方に厳しく注意されている動画は、拡散されています。

レジ袋が有料になってから、スーパーで、支払いもせず自分の買い物袋に入れて、堂々と出ていく人が増え、スーパーの被害が拡大しています。

コンビニの店員の態度が気に食わないと、店員の方に暴力をはたらく人もいます。

新幹線の指定席を購入していないのに、勝手に居座って、その指定席の購入者とトラブルになり、車掌に大声で怒鳴り散らす人もいます。

学校への保護者の怒鳴りこみやクレームも本当に多く、先生方がその対応にエネルギーを使って疲れていることも、よくお聞きします。

サッカーの町田ゼルビアの件のように、自分に関係のないことなのに、憂さ晴らしのように、誹謗中傷をする人もいます。


こんなことが、日常茶飯事なのです。


一番、おどろいたのは、車や原付の信号無視が普通に結構な頻度で行われていることです。

警察に捕まらなかったら、いいだろうとばかりに、赤信号でも突っ込んでくる車やバイクがあり、大事故につながりかねないと怖くなります。


ここまでに、あげたような様々なことの中には、昔からあるものもあります。

こんな人は昔からいるよね、と言われそうなことも多々あります。

しかし、それにしても、度が過ぎるものも多く、また、あまりにも日常的に見かけることが多くなり過ぎているように思います。


これは、学校教育の問題なのか、社会が歪んできているからなのかは、判断できません。


ただ、こういったことは、今の大人が、あまりにも「他人のことなんかどうでもいい。自分さえよければ良い。」という、自己中心的な考え方に偏りつつあることから来ているとしか思えません。

どうして、このようなことになるのか、私にもわかりません。


学校教育の中で、競争ばかりに目が行き、他人を蹴落としてでも競争に勝ち抜かないと、負け組となるとばかりに、競争してきたからかもしれません。

反対に、学校で競争が激しすぎるからと、順位をつけるようなことはしないというのも、逆の意味で、子ども達が他人に認められないという思いを植え付けてきたのかもしれません。

核家族化していることも、影響があるのかもしれません。

「失われた30年」が人の心に、暗い影を落としているせいかもしれません。

道徳的な感覚が希薄になっているからかもしれません。

また、個を大事にする、多様性を大事にするということが、はき違えた平等観を生み出したからかもしれません。


何せよ、他人の心を思いやることが、昔に比べて、できなくなってきていることは、先に挙げたような例からも明らかです。


それは一部の人だけであり、大半の人はそんなことはない、という方もいらっしゃいます。


その通りかもしれませんが、その一部の人の割合が増え、その一部の人がやっている行為が、昔に比べればあり得ないようなことをやっていると感じるのです。


人の気持ちを考える、他人への配慮をする、などとは程遠いことばかりです。

何も考えていないと言われても仕方がないようなことばかりなのですから。


これを学校教育だけのせいにするつもりは全くありません。

しかし、大きな意味で、教育の失敗であることは紛れもない事実です。


迷惑行為と言われることをする人たちが、どのような家庭教育、学校教育を受けてきたのかわかりませんが、明らかにおかしいと思われるような行為をしているのです。


この割合が増え、日本の国の中に、他人を思いやることができない人が増えれば、国の存続にかかわります。


資源も何もない我が国が、国を維持するためには、人財を育てるしかありません。

学力も大事かもしれませんが、人の心を豊かにして、他者を思いやれる国民にしないことには、国が成り立ちません。


そのためには、教育が何よりも重要なことは、容易に理解できます。


我が国をどのような国にするのかという議論をしっかりして、その方向にもっていくために、どのような教育をするのかということを明確にしなければなりません。


30年後、50年後の我が国をどのような国にするのかを明確にし、そのために、どのような教育が必要なのかを議論して、子ども達にはそのために必要な教育をしていくことが求められます。

そのために、私は「学校」というものが、どうしても必要だと思うのです。


その1本の柱となるべき「学校」を中心として、多様な学びの場が存在しなければ、国がバラバラになってしまいます。

教育として、多様な学びの場がたくさんあって、それぞれの価値基準で物事を考えていたのでは、一国の中で基準が多すぎます。


我が国を支えるための人財を作る場が明確にあり、その基準としての「学校」をスタンダードとして、その上で、多様な学びの場があるべきだと私は考えているのです。

そうでなければ、我が国がどこに向かっていくのかもわからず、我が国が崩壊してしまうと思うのです。


子ども達の将来が明るいものであるために、どんなことがあっても、我が国、日本をしっかりとしたものにする必要があります。

そのために、一つの基準として、我が国を支える人財を育成するために、「学校」というものが、必要であると思うのです。


しかし、現状の「学校」については、もう一度、見直す必要があると思います。


30年後、50年後、100年後、我が国をどのような国にしていくのが良いのか、そういう国にするためには、どのような人財が必要なのか、その人財を育成するためには、どのような教育をする必要があるのかという、根本的な議論を国民みんなで行い、学校の在り方を決めていくことが何よりも重要だと思います。

その土台がしっかりとした上で、多様な学びの場がたくさんあり、自由に学べる環境を作っていく必要があると思います。


最後までお読みいただきありがとうございました。

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Keisuke Tani
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