見出し画像

【試し読み】「人はなぜ、裏切られても信じるのか――」。信頼の謎に迫る『信頼と裏切りの哲学』

2024年2月の新刊、永守伸年さんによる『信頼と裏切りの哲学』から「序論」の全文を公開します。人が人を信頼するメカニズムを、ホッブズ、ヒューム、カントを手がかりにして、哲学的に考察する意欲作です。ぜひご一読下さい。

***

序論 信頼の謎を掘り起こす


日常に隠された謎

 信頼には謎めいた力がある。わたしたちを結びつけ、社会に秩序をもたらす。その力の一端は、もし信頼がなかったとしたら、と問いかけてみたらわかるかもしれない。
 さまざまな信頼がさまざまに抱かれている。人間に対する信頼もあれば、組織、制度に向けられる信頼もあり、動物や機械に信頼を抱くこともある。それらの信頼がなかったとしたら、組織は崩れ、お金はただの紙切れになり、他人に背中を向けられず、差し出された食べ物も喉を通らない。
政治や経済の仕組みが揺らぐだけでなく、個人の生活も、いっときの会話さえ立ちゆかなくなるだろう。そこまで想像して、わたしたちの社会生活が信頼の力に支えられていることに気づく。
 もちろん、そのような想像をまじめにめぐらせる人はほとんどいない。信頼のことごとくが、誰からも奪われるなどということはこれまでなかったし、これからもありえないだろう。その欠落を想像することが難しいほどに、信頼はわたしたちの日常に食い込んでいる。それは当たり前のことで、口に出すまでもない。
 この当たり前に亀裂が入ることはある。裏切りである。ささいな行き違いであれ、致命的な一撃であれ、裏切りをまるで経験したことのない人はいない。誰もが裏切りの可能性に開かれており、裏切られたときにはその痛みのなかで日常がぐらつき、いつもどおりにはふるまえなくなる。浮気されて打ちひしがれる。ひそかに日記を読まれた形跡があれば、引き出しにしまいこみ鍵をかける。列車事故が報道されて、なんとなく一両目には乗りたくなくなる。そんなとき信頼の謎がよぎる。
「裏切られるかもしれないのに、なぜ信頼したのだろう」。「どうしてあの人を信頼して疑わなかったのだろう」。これほど脆く、無根拠な信頼なるものに、自分の日常が、社会の秩序が支えられていることの謎である。
 裏切りの亀裂が塞がらず、奈落のように広がることもある。かつてアウシュヴィッツ、ブーヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン強制収容所に送られた作家、ジャン・アメリーはこのような証言を残している。

警察で殴られると、人間の尊厳を失うものかどうか私は知らない。だが、次のことは自信をもって言える。最初の一撃ですでに何かを失うのだ。何かとは何であるか。差し当たり世界への信頼とよぶとしよう。まさにそれを失う。世界への信頼である。

(ジャン・アメリー『罪と罰の彼岸【新版】』池内紀訳、みすず書房、2016 年、65頁) 

 拷問は殴られるだけでは終わらなかった。拳銃を突きつけられ、手を縛られて宙吊りにされ、鞭で打たれる。吊り下げられ肩の関節が外れる音とともに、自分のまわりに広がる、それまでは親しみやすくなじんでいた世界に対する信頼が、一挙に消失する。「最初の一撃ですでに傷つき、拷問されるなかで崩れ去った世界への信頼というものを、もう二度と取りもどせない。アメリーは偶然、収容所を生き延びて、社会と呼ばれる人間の共同生活に帰還した。けれども彼には信頼が、信頼に支えられているこの社会そのものが、理解しがたい謎として迫ったのではないだろうか。
 これほどの裏切りを誰もが経験するわけではない。幸運にも信頼を失わないまま生きていく人のほうが多いかもしれない。そんな人の信頼はすぐさま砕けることはないだろう。信頼には回復力もそなわっていて、一度や二度の裏切りにはくじけない。しょうこりもなく新しいパートナーを探し、いつの間にか平気で列車の一両目に乗っている。日記を盗み見られたことも忘れてしまうかもしれない。こうして、信頼は日常の地盤に再び根を張りめぐらせる。その謎もまた日常に埋もれ、隠されることだろう。楽しく生きていくためには、足元をやたらと探りあてようとしてはいけない。思いがけず地盤が脆く、たしかな根拠を欠いていることに気づいたとしても、見ないふりをするほうがいい。
 本書が掘り起こそうとするのは、このようにして埋もれた信頼の謎である。謎は「どうすれば政治への信頼を取り戻すことができるか」とか、「初対面において何が信頼性を高めるのか」とか、「ワクチン不信をいかにして回避するか」といった問いにあるのではない。それは個々の信頼を高めるための技術的な問いであって、むしろ日常にあふれている。そうではなく、すでに信頼の力によって社会の秩序が成り立って「しまって」いるのはどうしてなのかという問い、「社会の根っこ」にさかのぼる問いである。これはいつも意識されるわけではないが、誰にもどこかでよぎる問いではある。裏切り、裏切られることのある、すべての人に信頼の謎は開かれている。
 ひとたびこの問いにとらわれると、社会の成り立ちそのものが謎めいてくる。もし社会の秩序が神の命令や、自然法則、揺るぎのない意志にしたがっているなら、こんな謎には巻きこまれなかったかもしれない。それらはわたしたちを裏切ることなく、社会を支えるだけの堅固な地盤となるだろう。他方、信頼はどうか。人と人、あるいは人と人以外の何かによってかろうじて繫ぎとめられ、必ずしも思うままにならない相手、それも裏切られるかもしれない相手に対して価値あるものを委ねている。そんな関係によってこの社会が成り立っているとすればどうか。信頼の脆さ、根拠の乏しさを実感するほどに「社会の根っこ」はほどけ、まるで底なしの奈落の上で、危うい綱渡りをしているような心地になってくる。こうして、本書の問いが生まれる。

「どうして信頼が社会の秩序を支えることができるのだろうか」

 これはつまり、人々を結びつけ、協力をもたらす信頼の力がどこからやってくるのかを説明しようとする試みである。そしてこの問いを発するとき、すぐさま次の問いがやってくる。

「そもそも、信頼とは何だろうか」

この問いに答えられる人がどれほどいるだろう。信頼という言葉の意味も、信頼と呼ばれる態度を解き明かそうとする分析方法も多様である。これまで経済学、社会学、心理学、政治学といった学問領域がそれぞれの関心にそくして信頼を定義しようとしてきたにもかかわらず、いまだ統一された見解は得られていない。信頼を考えるための見取り図すら十分に整えられていない。
 それなのに、多くの人は日常会話でも、学術研究でも信頼について語ろうとする衝動を抑えられないでいる。信頼の根は社会生活のさまざまな方面に、そしてさまざまな階層に及んでいる。まずはその内容、その仕組みをできるだけ丁寧に点検しなければならない。あるものが「そもそも何か」を問いかけるのが哲学の(悪)癖であるとすれば、本書もその意味では哲学的な問いを構えることになる。

「それでもあなたのことを……」

 こうして本書は二つの問いに取り組むことになる。一つは信頼の力についての問い、もう一つは信頼の内実についての問いである。これらの探究を通じて信頼の謎を解き明かすのが本書の目的となる。「序論」では、この目的に挑むための下準備をしておこう。
 一つ目の問い、信頼の力に関しては、それを考える端緒としてうってつけの問題がある。「ジャン・バルジャン問題」とでも形容できる状況である。先ほどは裏切られる側について述べたが、今度は裏切る側にまわってみよう。あなたは銀の食器を盗むのでも、インサイダー取引をするのでも、友人の通話を盗み聞きするのでもいい、ともかく誰かの信頼を裏切ってしまった。ところが、裏切られたはずの相手は、それでもあなたを信頼することをやめない(と、仮定してほしい)。言葉で表現されることも、表情で示されることもあるだろう。そんなとき、あなたはどうするだろうか。
 愚かなやつだと、もう一度、裏切りを食らわせるチャンスだと思うかもしれない。しかし、もしかすると、相手の信頼に応えたい、応えなければならないとも感じるのではないだろうか。これは信頼研究において「治療的な信頼」として知られる力の一側面である。ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』では、主人公、ジャン・バルジャンに銀の食器を盗まれたミリエル司教がそれでも彼の善性に対する信頼を伝えようとする。このとき司教はジャン・バルジャンと出会ったばかりで、彼が自分の信頼に応えるという証拠を握っていたわけではない。司教の信頼は根拠薄弱で、その点では危うい賭けをしているようにも見える。けれども信頼には、それをあえて伝えることで信頼に値する主体に「なる」よう相手を拘束する力がある。それは過去の証拠に基づくのではなく、未来に向けてみずからの期待を的中させようとする。
 信頼される側の抱く欲求や、思いから独立して、何らかのふるまいに拘束する力。この拘束力をひとまず「規範」という言葉を用いて表現することにしよう。とすると、信頼の謎めいた力の一側面は、規範的な力にあると言えるかもしれない。
 もちろん、これだけでは結論を導くだけの議論はなされていない。「ジャン・バルジャン問題」が示唆するのは信頼の謎に迫るための、一種の発想の転換に過ぎない。これまで、多くの信頼研究は何らかの規範をあらかじめ前提として、それによって信頼関係が結ばれると考えてきた。とくに強力なのは道徳的規範である。これは珍しい考え方ではなく、たとえばわたしの通った高校では「人に信頼される人になろう」という校訓をかかげていた。「そのために、まずは道徳的であれ」。むやみに人を疑うことも、裏切ることもなければ、人を信頼し、人に信頼される人になれる。たしかな信頼関係を築くことができる。しかし、この発想を転換すればどうだろう。道徳的規範によって信頼関係の成立を説明するのではなく、信頼関係によって道徳的規範の成立を説明するのである。実際『レ・ミゼラブル』のミリエル司祭がジャン・バルジャンの生き方を変えたように、信頼はそれを示すことで相手のふるまいを方向づけるだけの力を発揮することがある。その力は「たとえ自
己利益に反しても、裏切るな」という道徳的規範さえもたらすのではないだろうか。
 これが、信頼の力をめぐる本書の見通しの一端である。もし信頼が「裏切るな」という規範をもたらすだけの力をそなえているなら、信頼することはそれほど不合理な態度ではないのかもしれない。そして信頼を抱き、それに応えることはおぼつかない綱渡りではなく、社会の秩序をその「根っこ」においてつくりあげる相互作用となりうるかもしれない。この見通しに示されるのは、見知らぬ他人同士さえ結びつけ、わたしたちを相互協力的なふるまいに促そうとする信頼の力である。

ターゲットを絞りこむ

 とはいえ、これまで述べてきたのは信頼の一つの側面に過ぎない。「ジャン・バルジャン問題」では人と人との、それも対面的なやりとりの局面が問われていた。しかし、そればかりが信頼ではない。ここで本書の二つ目の問いに立ち戻ろう。そもそも、信頼とは何だろうか。
 問いに取り組むために、さしあたっては信頼と呼ばれるものをなるべく多く含む包括的特徴を与えてみよう。それは「不確実な状況において抱かれる、相手に対する肯定的な期待」である。
 この表現には、これまでの信頼研究においてゆるやかに共有されてきた信頼の構成要素が集約されている。(1)まず、当たり前のようだが、信頼には「相手」がいなければならない。自分自身であれ他人であれ、何らかの制度やシステムであれ、信頼にはその対象がある。(2)仮にその相手がまったく自分の思いどおりになると確信できるなら、信頼はもとより必要とされない。言い換えれば、信頼は相手のふるまいに関して「不確実な状況」においてのみ問われる。(3)この不確実な状況において、信頼を抱く側は何らかの「肯定的な期待」を抱く。信頼関係によってもたらされるものは望ましく、それに対して前向きな態度を取るという想定である。(4)そして、この態度には相手の「有能性」に対する期待も含まれる。相手が何ごとかをなすだろうと期待するには、少なくともそれが「できる」ことが期待されなければならない。
 しかし、これら(1)から(4)の要素に訴えるだけでは、「信頼とは何か」という問いに十分に答えたことにはならない。たとえば、信頼という言葉を含む次の文例を読んでみてほしい。

信頼概念の多義性
(a)「少しも神に信頼していないじゃないか。やっぱり怒るじゃないか」(夏目漱石『行人』)
(b)「奇妙なことに思われるかもしれませんが、相手が敵であってもプロならばその行動原理に一定の信頼がおける」(『攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX』十九話)
(c)「このコンピュータを信頼しますか?」(電子端末に表示されるメッセージ)
(d)「三十歳以上は信頼するな」(反戦運動のスローガン)
(e)「日本政治の長年の課題の一つは、政治家や政党に対する国民の信頼の低さをどう克服するかです」(『朝日新聞デジタル』二〇二二年八月十二日)

 いずれの「信頼」も「不確実な状況において抱かれる、相手に対する肯定的な期待」ではある。ただし、(a)の信頼は現在の日本語話者の感覚としては「信仰」という言葉の方がしっくりくるかもしれない。(b)は「予測」とも言い換えられるだろうか。とすると、「「信頼」はいかにして「信仰」や「予測」から区別されるのか」という疑問が浮かぶ。また(c)の信頼がコンピュータに宛てられる一方、(d)と(e)の信頼は人間に向けられている。後者においても(d)の信頼は善意や誠意のような相手の動機、(e)の信頼は「政治家」のような相手の社会的役割に関与する。ここから「「信頼」は一枚岩ではなく、いくつかの異なる種類の態度を含むのではないか」と考えることもできる。
 このように、わずかな事例からも信頼の多義性は明らかだろう。日常的な言葉づかいだけでなく、専門的な研究方法もさまざまである。すでに述べたように、従来の研究は経済学、社会学、心理学、政治学といったそれぞれの学問領域の関心と方法にそくして信頼を探究しており、そのアプローチを一括りにすることはできない。この「ごった煮」のような研究状況に哲学者たちも「信頼とは何か」という問いをかかげて参入したものの、現在に至るまで明快な回答を提示することには成功していない。なんとなくわかっているつもりでも、それが何かと問われればうまく答えられないのが信頼なのである。
 それでも、信頼の力を見定めるために、前もって「信頼とは何か」をできるだけ明確化しておきたい。たとえ厳密な定義を与えられないにせよ、ある程度はターゲットを絞りこむ必要がある。

範囲

 まずは本書が検討対象とする信頼を「PはQを状況Cにおいて、Xに関して信頼する」という基本形式をそなえた態度として理解しよう。前述の信頼の構成要素を踏まえると、状況Cとは「不確実な状況」であり、「信頼する」態度は「相手に対する肯定的な期待」を意味している。
 この基本形式において注目されるのは信頼の範囲である。どのような信頼であれ、それは「Xに関して」抱かれる。たとえば、わたしは「餃子のタネをきちんと包むことに関して」友人を信頼しているが、「焦がさずにおいしく焼くことに関して」は不信を抱いている。わたしの友人は「猫の遊び相手になることに関して」パートナーを信頼しているが、「猫の介護をすることに関して」は怪しんでいる。このように通常、信頼は一定の範囲に限られる。
 範囲に限りのない信頼はありうるだろうか。それはPがQに全領域にわたる、全人格的な信頼を寄せることである。餃子をきちんと焼くことも、忍耐強く猫の介護をすることも、そのほかのあらゆることに関して信頼を寄せるとすれば、それは「信仰」という言葉のほうがふさわしいだろう。

対象

 続いて、信頼の対象を考えよう。基本形式で言えば、PからXに関して信頼を寄せられるQのことである。本書は信頼の対象として人間を想定する。正確には、人間という種には必ずしも限定せず、何らかの仕方で考え、行為し、感じる「人間的な主体」に対する信頼を検討する。
 人間的な主体にこだわる理由の一つは、本書が信頼と規範の関係を明らかにすることを目指すからである。規範にはいくつものタイプを想定することができるが、いずれもそれらをつくりあげたり、受け入れたり、逸脱したりすることのできる人間的な主体に関わる。そうした主体には一部の霊長類や自律的な機械、ほかの惑星の知的生命体なども含まれる可能性はあるが、何よりも人間が典型となるだろう。
 したがって、本書の検討からは無生物や自然現象に対する信頼だけでなく、企業や政府のような組織、さらには社会制度や工学システムに対する信頼も除外する(この点では、たとえばモートン・ドイッチやニクラス・ルーマンの信頼論よりもその射程は狭められている)。ただし、これらの対象も人間的な主体との類比においては考察の余地がある。たとえば、交通インフラ企業に対する信頼や列車の運行システムに対する信頼を正面から扱うことはできないが、そうした組織や制度に関して、「安全第一」とか「定時運行」といった経営者(あるいは設計者)の意図を投影することができる限り、それらの意図に対する信頼を問うことはできる。また後述するように、組織や制度に所属する「企業人」や「専門職」も、人間的な主体である限りは本書の扱う信頼の対象となる。

脆さ

 さらに、信頼の脆さに注目しよう。「PがQを状況Cにおいて、Xに関して信頼する」とき、Pはことのなりゆきを直接にコントロールできるわけではない。Xに関する帰結を(部分的には)Qに委ねなければならない。たとえ信頼に規範的な力がそなわっているとしても、不確実な状況CにあってQがPの思いどおりにふるまうとは言い切れず、Pの信頼はどこまでもQによって裏切られるリスクを伴っている。しかも「約束」とは違って、Pは信頼を裏切られたとしてもその責任をQに負わせることができるとは限らない。それどころか「信頼したあなたのほうが愚かだった」と言われることさえある。したがって、信頼は「確信」や「約束」とは異なり、「賭け」に似たところがある。
 ただ、裏切りといっても一様ではない。もう一度「信頼概念の多義性」として示した例文の一つ「奇妙なことに思われるかもしれませんが、相手が敵であってもプロならばその行動原理に一定の信頼がおける」に立ち戻ってみよう。この事例の信頼も裏切られるリスクを伴っているが、裏切られてもせいぜい「がっかりする」くらいで、深刻に傷つけられはしないだろう。プロフェッショナルな行動原理にしたがって敵の行為を予測したものの、その予測が外れただけのことである。
 対して、信頼研究の多くは予測の失敗よりも深刻な裏切りがあると考えている。尊敬する偉人が差別的な言葉を書き残していたり、同僚が産業スパイだったことが発覚するときには、ただの驚きではなく、自分は傷つけられたという感情が呼び起こされるだろう。それは裏切られた人が相手の善意にせよ、自分の利益にせよ、その人にとって望ましいもの、価値あるものに信頼を寄せていたからである。本書もただの予測ではなく、価値あるものに対する信頼を考察することにしたい。

信頼をめぐる三つのアプローチ

こうして、本書の検討する信頼は(i)対象、(ii)範囲、(iii)脆さに関して限定された。(i)それは人間的な主体にさし向けられた、(ii)一定の範囲のふるまいに関する肯定的期待であり、(iii)不確実性をとどめ、裏切りのリスクを伴っている。
 このことを前提として、もう少しだけ「肯定的期待」について検討しておこう。これまで、多くの研究は信頼を肯定的期待の一種として特徴づけるだけでなく、この期待の内容や、期待が成立するメカニズムを複数の角度から考察してきた。ここでは、代表的な立場として認知的、感情的、制度的アプローチの三つを取り上げ、それぞれの信頼の内容を整理しておきたい。

認知的アプローチ

 まずは認知的なアプローチを見てみよう。これは、相手があることがらに関して信頼に値するという「信念」として信頼を理解しようとする立場である。
 そうした信念はいかにして抱かれるのだろうか。ディエゴ・ガンベッタ、ジェームズ・コールマン、ラッセル・ハーディンといった研究者は利益のありかに注意を促す。たとえば谷底に足を滑らせたPが、運よく頭上の登山道を通りかかったQを見出したとしよう。Qが危険をおかしてまで自分を助けるような人間であるかどうか、Pにはわからない。けれども、Pは自分を助けてくれれば謝礼を支払うと提案し、Qがそれを了承するなら、Pは「自分を助けてくれる」ことに関してQが信頼に値するという信念を抱くことができる。Pの認知は誤っているかもしれないが、それが正しいか間違っているか、あるいはどれほどの確率で正しいかを問うことには意味がある。
 このように、相手が信頼に値するという信念としての信頼を「認知的信頼」と呼ぶことにしよう。認知的信頼は合理的選択理論の影響下にあって、個人的合理性に基づく意思決定から、いかに相互協力的な社会秩序がもたらされるのかを検討する社会科学の信頼研究において論じられてきた。

感情的アプローチ

 他方、相手が信頼に値するという信念は信頼が成立する必要条件ではないという考え方もある。
 たとえば、谷底に落ちこんだPが「Qは自分を助けてくれることに関して信頼に値する」という信念を疑わしくする、あるいは反証する出来事を突きつけられるとしよう(Qが谷底のPから目を背けたとか、QがPの積年の恋のライバルであるとか)。しかし、わたしたちは「それでもQを信頼することをやめないP」を思い浮かべることができるのではないだろうか。場合によっては、Pは「ジャン・バルジャン問題」の司教のようにQに対する信頼をあからさまに示すことで、相手のふるまいを変えようとさえするかもしれない。このような想像の余地があるのは、根拠薄弱な状況においてなお、「それでもQはPが自分を頼っているという事実に動かされるだろう」といった楽観がPに抱かれうるからである。感情的な楽観によって成立する信頼を「感情的信頼」と呼ぶことにしよう。
 このアプローチはアネット・バイアー、カレン・ジョーンズ、ベルント・ラーノといった哲学者によって提示され、長いあいだ影響力を持ってきた
。ジョーンズが注意するように、感情的信頼も相手の心的状態に対する認知を含んではいる(したがって感情的信頼は非認知的信頼ではない)。ただ、それに加えて信頼する側の「楽観」の感情と、信頼される側の「善意」の感情を捉えなければ、信頼を説明するには不十分だと考えるのである。

制度的アプローチ

 従来の信頼研究、とりわけ哲学的な研究において注目されてきたのは認知的ならびに感情的アプローチである。しかし、本書はさらに制度的なアプローチにも光をあててみたい。
 先ほどの例で言えば、谷底のPがQに救援を呼びかけるとき、Qが有名な山岳ガイドであることに気づいたとしよう。この場合、PはQの自己利益や、Qの善意を頼りにすることもできるかもしれないが、それらをまったく意識しなくても、ただ「山岳ガイド」という制度の役割にそくしてQに信頼を抱くことができるのではないだろうか。「自分を助けてQにどれほどの利益があるのかわからない。Qが自分に善意を向けているのかどうかも感じとれない。でも、ともかく、Qは山岳ガイドなのだから助けてくれるだろう」。これが「制度的信頼」である。ただし、この期待も信頼である限りは不確実性に伴われる脆さを伴っていることに注意しよう。問われているのが信頼であるならば、Qが山岳ガイドとしてなすべきことを知りつつ、それをあえて遂行しないという可能性は排除できない。Pはそのリスクを受け入れた上で、それでもQが制度にそくして自分を助けてくれると賭けるほかない。
 このように法律、慣習、エチケットといった制度に関するコミットメントによって信頼を捉えようとするアプローチは、オノラ・オニール、エイミー・ムリン、キャサリン・ホーリーといった哲学者によって模索されてきた
。社会制度のネットワークに信頼を位置づける試みである。

多層的な信頼

 三つのアプローチはしばしば対立の構図において理解されてきた。認知的信頼の立場がモデルの簡明さ、説明力の高さを誇る一方、それだけでは「信頼」と「予測」、あるいは「信頼」と「依拠」の区別がつけられないことを感情的信頼の提唱者は指摘する。しかし制度的信頼の観点からは、感情的信頼の理論が対面的なやりとりに限定されることが批判されるだろう。ここには論争の歴史がある。
 ただ、これらの信頼は必ずしも排他的な関係を結んではいない。現実に結ばれる信頼関係のありようを思い浮かべれば、それが自他の利益、感情的状態、社会制度と多層的に関わっていることがわかるだろう(たとえば親子の結ぶ感情的に無垢に思われる信頼においてさえ、実は互いの利益や、家族という制度が多かれ少なかれ影響を与えているのではないだろうか)。利益を探り合いながら、感情を交わし、制度の規範を引き受ける。信頼と呼ばれるのはこのように多層的な態度であり、それはときに、信頼しているはずの当人さえ切り分けることが難しい。この意味で、三つのアプローチはそれぞれの理論的関心に基づき、信頼における特定の「層」を分析的に抽出したものだと考えられる。
 本書は「信頼とは何か」という問いを探究するなかで、三つのアプローチがどのような関心に根ざしており、どれほどの説明力をそなえているのかを明らかにする。最終的には、信頼を認知、感情、制度といった異なる次元にまたがる、多元的かつ多層的な態度として提示したい。

本書の構成と特長

 ここに至って、はじめは途方もなく広く、曖昧だった信頼なるものが、それなりの輪郭をもって定められたのではないだろうか。一般に、信頼とは「不確実な状況における肯定的な期待」である。この定義を出発点として、さらに二段階の明確化をほどこしてきた。まず、本書が検討するのは(i)人間的な主体の、(ii)何らかのふるまいに関して抱かれる肯定的期待であり、(iii)裏切りの可能性に開かれているという脆さを持っている。加えて、この肯定的期待は一枚岩の態度ではなく、少なくとも認知的信頼、感情的信頼、制度的信頼の三層から成り立つ多層的態度として特徴づけられる。
 以上の分析を前提として、本論では「信頼の力」を見定めるための議論に踏み出す。第一章から第三章までは信頼をめぐる三つのアプローチを詳しく検討し、第四章ではそれらの成果を総動員して信頼の多層構造と、信頼関係の醸成過程を提示する。このような本書の探究に関して、その特長を三点述べておこう。
 第一に、本書は信頼を考察するにあたって、現代の信頼研究だけでなく、過去の哲学者の思想、とりわけ社会契約論と呼ばれる近世ヨーロッパの思想的伝統を援用する。主として第一章ではホッブズの洞察を導きとして認知的信頼を、第二章ではヒュームの着想を基礎として感情的信頼を検討したい。その上で、第三章と第四章では、制度的信頼を論じるためにカントの思想にも踏みこむ。ホッブズ、ヒューム、ルソー、カントといった哲学者たちは必ずしも信頼を主題としていないにもかかわらず、そのテキストには「信頼の力」や「社会の根っこ」をめぐる豊かな手がかりが残されている。これらの手がかりを拾い集め、信頼を軸として社会契約論を読み直すところに本書の思想的な意義がある。
 第二に、このように現代の学際的な信頼研究を横糸、近世ヨーロッパの思想史研究を縦糸とする本書の研究方法を通じて、信頼の態度には規範的な拘束力がそなわることが明らかにされる。前述のとおり、従来の研究の多くは法的、慣習的、あるいは道徳的な規範を前提として、そこから信頼関係がもたらされることを主張してきた。この発想に本書は再検討を加える。規範によって信頼関係が成立するだけでなく、その逆方向の道程、すなわち信頼関係によって規範が成立する可能性を探りたい。とりわけ第四章では、道徳的規範にしたがって行為する誘因が信頼の観点から与えられることになる。それは「信頼の力」をもって道徳の規範性を解明しようとする倫理学的な探究ともなるだろう。
 第三に、本書は信頼だけでなく、裏切りと不信にも照明をあてる。信頼にはどこまでも裏切りの可能性が伴われており、それゆえ「信頼の力」の裏面には「裏切りの脅威」がある。「裏切られるかもしれないのに、どうして信頼を抱くことができるのだろうか」。この切実な問いに対する応答を、本書は第一章から第四章にかけて追究する。さらに本書の最終章、第五章では不信にも積極的な意義が見出される。現在、わたしたちが生きる社会はしばしば「不信の時代」とも形容されるが、不信は必ずしも避けられるべき悪徳ではない。不信は圧政、偏見、差別に抵抗するための拠点ともなりうるからである。本書は一方では信頼の分析を通じて「社会の根っこ」に迫りつつ、他方ではこの社会を生き延びるための、わたしたちの生の拠りどころとしての「不信の力」を示したい。

続きは本書にて、ぜひお手に取ってお楽しみ下さい。

***

著者略歴

永守 伸年(ながもり のぶとし)
1984年生まれ。京都市立芸術大学美術学部専任講師を経て、現在、立命館大学文学部准教授。京都大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は近世ヨーロッパの哲学のほか、信頼研究、現代倫理学、障害学など。著書に『カント 未成熟な人間のための思想――想像力の哲学』(慶應義塾大学出版会、2019年)、共著に『モラルサイコロジー――心と行動から探る倫理学』(春秋社、2016年)、『信頼を考える――リヴァイアサンから人工知能まで』(勁草書房、2018年)、『メタ倫理学の最前線』(勁草書房、2019年)。

↓本書の詳細はこちらから

#永守伸年 #信頼と裏切りの哲学 #信頼 #裏切り #哲学 #ホッブズ #ヒューム #カント #慶應義塾大学出版会 #keioup

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?