【試し読み】「美」によって「自由」を追究した思想家――『フリードリヒ・シラー 自由の美学』
フリードリヒ・シラー(1759〜1805)は、ドイツ古典主義文学の黄金時代を築き上げた国民的詩人。鈴木優『フリードリヒ・シラー 自由の美学』によれば、彼が残した多くの詩や戯曲は、現在に至るまで「ドイツの国語教育に必ず登場する模範的文学」であるという。シラーは世界的な作家でもあり、ベートーベン交響曲第9番の歌詞『歓喜の歌』や、日本ではシラーの詩をもとに太宰治が創作した『走れメロス』などを通じて、多くの人がシラーの作品に触れている。
本書は、文学者であると同時に哲学的医師でもあったシラーが、同時代の唯物論的な人間観と対峙しつつ、それでも文化や芸術を通じた「遊戯」によって人間性を彫琢し、精神の自由を獲得しようとした思索の全貌を描き切る一冊。シラーに関連する多くの図版も魅力的です。
詳しくは、序章の一部をお読みください。
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序章 美はいかに人を形成するか
ドイツ啓蒙主義と自由の探究者
〔中略〕シラーは美と自由に関する思想を紡いだ。医学、生理学、人間学、歴史、哲学、美学、教育といった多様な学問分野を横断する形で、シラーは人間の生とその目的を熟考し、人間はいかにしたら「自由な存在」になることができるのかという問いに、生涯をかけて向き合った。そして近代化する社会の中で露わになる、問題を抱えた人々の現実の姿を前に、美が人間の理想の実現に寄与する可能性を見出したのである。こうして生み出されたものが、美を通じた人間形成(Bildung)の構想であった。芸術や文学といった美はいかに人を形成し、いかに「自由」をもたらしうるのか。このシラーの問いと構想がいかに成立したのか、それを再構成することが本書の課題である。
(1)18世紀における自律の精神
シラーの「自由」への関心は、近代化に伴う時代の大きな変化を背景としている。近代世界に生きる個人の生の改善を通じて国家の改善をも目指した点で、その芸術を通じた人間形成構想は、時代の転換期にあってドイツの行方を論じた知識人が編み出した1つの思想モデルでもあった。
シラーの生きた18世紀末から19世紀初頭にかけてのドイツは、未だ30年戦争の惨禍の影響が色濃く残る後進国であった。神聖ローマ帝国の領域内には、300以上の領邦国家(小君主国)が並立しており、その統一(ドイツ帝国の成立)は、1871年まで待たなければならない。七年戦争(1756〜1763)、フランス革命とそれに続く革命戦争(1789〜1795)、ナポレオン戦争(1796〜1815)の混乱を経て、最終的にプロイセン軍の敗北により、1806年に神聖ローマ帝国は崩壊する。それまで政治、経済、法律、軍事の面で帝国旗のもとに祖国を見出していた数百の小さな領邦国家が独立することになる。
世紀転換期に生きた知識人は、こうして古い政治的統一性や伝統文化が崩壊していく状況を目の当たりにして、ドイツの未来を様々な形で論じていた。すでに憲法制定の問題と取り組んでいたイギリス(理性と進歩を称賛し、経験と観察を重視する啓蒙主義思想が花開いていた)や政治的・社会的な制度の改革や過激な革命へと結びついていくフランス啓蒙主義(急進的な宗教批判が展開された)とは異なり、ドイツ啓蒙主義は、表立った政治的な関心や、革命的なイデオロギーや運動の展開、宗教(超越的なもの)の過激な否定といった傾向を持たない。むしろ、この時期のドイツの知識人は、共通して人間の内面的なあり方の改善、人間の精神的な解放を目指す理論的問いに熱心に取り組んでいた。このドイツの精神的な運動は、「折衷主義、自律的思考、成年性」という綱領をもとに、人々を偏見や無知蒙昧から解放すること、様々な概念の秩序や連関を理解し、自ら思考することのできる理性的で自律した存在を形成することを目標としたのである。
シラーの「自由」に関する思想発展に影響を与えたイマヌエル・カント(1724〜1804)は、『啓蒙とは何かという問いへの回答』(Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?, 1784)において、この啓蒙主義期において理想とされた人間像を、次のように言い表している。啓蒙とは、「自らが招いた未成年状態」(Unmündigkeit)から抜け出し、他人の悟性の導きに依存することなく、「自分自身の悟性を使用する勇気」を持つことである。自らの悟性を用いて思考する人間こそは、自律した存在であり、〈自由な主体〉であるとみなされたのである。シラーは、この啓蒙主義的、カント的な「自由」理解を批判的に受容することになる。
(2)シラー 自由の美学
シラーにとって問題となったのは、自由な(自律した)主体という、カントが掲げた人間の理想的あり方についてであった。カントは、欲求や欲望といった人間の感性的・身体的な次元における様々な条件に左右されるこ
とのない理念的水準で、人間の道徳行為を基礎づけようとした。「〜すべし」と、現実を規制する統制的な理念に自ら従い行為できるようになること、つまり他人の悟性の導きのもとではなく、普遍的に妥当する真の道徳原理(定言命法)によって自らを律することのできる存在、自己規定できる人間像が目指すべき理想とされたのである。
シラーはカントの「自律」概念に賞賛を送る。それでも、シラーの「自由」の探究は、カントとは異なる方向へ向かった。シラーは、カントら啓蒙主義の哲学者たちが確立した抽象的・思弁的な人間形成の理念に対し、いわば芸術家、文学者の視点から、経験世界に生きる人間にとっての理想的あり方を模索したのである。カントの定言命法が人間の自然の傾向性や感性的あり方を顧みないのに対して、シラーは、現実世界に生きる人間がどのようにしたら「自由」な存在となることができるのかを熟考した。ここで、シラーにおける「自由」は、感性界(現実の世界)における人間の自然なあり方と矛盾しない形で、叡智界(理念の世界)の要求する道徳法則に従って行為することができる存在、という意味合いを帯びてくることになる。
なかでもシラーの代表作の1つ、本書でも扱う『人間の美的教育についての一連の書簡』(Ueber die ästhetische Erziehung des Menschen in einer Reihe von Briefen, 1795)(〔以下『美的教育書簡』と略す〕は、美がこの「自由」を可能にすることを主張したものである。その中でシラーは、現実と理想を架橋し、人間に「自由」を可能ならしめるものとして、「美的仮象」(ästhetischer Schein)の性質に着目する。人が芸術を享受する際、現実世界での直接的な経験とは異なる、一種の虚構性を本質とした二次的な経験をする。この「美的仮象」の経験の中で、人は自身の二重の本性である理性と感性をともに働かせる活動へと促される。そして、そのどちらを強制することもなくこの両性質を遊ばせることで、それらは相互に均衡に作用し合う「遊戯」(Spiel)の状態へと至る。このとき人間は、理性に支配された状態(例えば道徳法則からの強制)からも、感性に支配された状態(感覚や欲求など、身体的衝動からの強制)からも解放されている。こうして到達した「遊戯」の瞬間こそは人間の「自由」な状態であり、この「美的状態」を媒介として、人間は「自然状態」から「道徳的状態」へと移行し、現実世界で自律した行為をすることが可能となる。これがシラーの自由の美学であり、また美的人間形成論の中核をなす考えである。
このようにシラーは、分裂してしまった近代人の感性と理性を融和させる可能性を芸術のうちに見出した。芸術こそは人間の「全体性」を回復させる。シラーは、啓蒙主義の説く理性的な存在、またカントの重視した理性の法則に従って行為することのできる自律した主体という概念を批判的に受容し、人間の自然なあり方と理性的なあり方の調和可能性を模索したのである。その意味で、シラーの人間形成構想は、ドイツ啓蒙主義の知性優位の一面的な人間像への批判として位置づけることができるのである。
(3)美と教育
シラーは芸術の創作や享受という人間の文化生産的な営みと、人間形成や教育という実践的な領域とを結びつけた。こうして、美(一般)や芸術(特殊)の経験が人間に与える作用を問う「美的人間形成論」(ästhetische
Bildungstheorie)の分野が生まれることになる。とりわけ、シラーが美を「叡智界(理念の世界)と現象界(現実の世界)の媒介」者として位置づけた点で、教育学分野では『美的教育書簡』は常に参照すべき古典として扱われてきた。自ら欲して理念や道徳の法則に従い行為することができるようになることは、教育学や人間形成論における根本問題にほかならないからである。
ところが、シラーのこの魅力的な構想は、その実現可能性をめぐって、現在に至るまで多くの議論を呼び起こしてきた。シラーは、「仮象」や「遊戯」の中でこそ「自由」の理念が達成されるとした。しかし、現実の社会の中で行為していかねばならない人間にとって、その「自由」とはいかなる意味を持つのか。芸術に触れることで、人間は本当に責任をもって、自律的に行為することができるようになるのか。美と教育に関心を寄せる者たちは、この人間形成構想の現実的な意義をめぐり、『美的教育書簡』の解釈を重ねてきたのである。
シラーは『美的教育書簡』で、美の人間への作用を超越論的に、すなわち本来は自然や偶然に支配され、多様なあり方で現象界に存在している人間や芸術の姿をいったん括弧に入れ、人間の本質、美の本質を経験に還元せずに考察した。しかし、この超越論的考察を解釈するだけでは、現実世界に生きる人間の「自由」への移行可能性は未だ不明瞭であり、それは結局は思弁的・抽象的な理論にとどまったままである。
本書では、シラーの初期の人間学や中期の歴史研究期における経験的な人間理解の試みにも着目して、その人間形成構想が成立していく過程を論じる。これらの視点は、従来のシラーの美的人間形成論研究では看過されてきたが、シラーを統合的に理解するために必要不可欠である。実際にシラーは、実証的人間学、歴史研究、あるいは文化人類学的な人間の「遊戯」に関する考察を通じて、経験的にも人間の「自由」への移行可能性を論じようとしていた。本書は、自然科学的、歴史的、文化的、そして超越論的な人間観察を通じて、シラーが人間の現実と理想を架橋する手がかりを見つけていく過程を示す。それを通じて、シラーが人間を内外の自然に規定された現実の状態から解放するという〈消極的な自由〉のほかに、世界と新たな関係を取り結び、現実に向き合って行為していくための〈積極的な自由〉の経験を可能にするものとして、「美的経験」の空間を整えようとしていたことを明らかにする。こうして、一見「有用でないもの」として周縁に追いやられがちな芸術や文化が人間の「自由」に果たす役割、その潜在的可能性を提示したい。
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