見出し画像

自叙伝⑲仏門とは関係のない仕事をすることについて

仏門に入ったころのことでした。
クライアントさんたちから「継続コンサルをしてほしい」と依頼を受けるようになりました。

これまでセミナーや講座や単発の個人セッションしかやってこなかったのは、人様の人生に本当に深くかかわるという責任を負いたくなかったという面もあったからなのです。
でもあのコミュニティーでの連続講座を経験したことで私の考えは変わっていました。
あの時は1年という期間限定だったけど「共に歩む」ということの意義を大いに学びました。
仲間がいる、一人ではないということの安心感や心強さは理屈でないものがあると感じました。

私はたまにメンターやコーチに付くことはあっても、ずっと一人でやってきたので、ちょっと皆さんが羨ましいぐらいでした。
同じ方向を向いている仲間と一緒に歩を進めることほど支えになるものはないのではないかと思います。

寄りかかりあって依存し合う関係性ではなく、それぞれが前を向いて自分の足で歩いていく中で健全な横のつながりがあることは本当に励みになるものなんだなあと皆さんを見ていて感じたし、自分自身もそうでした。
そんなわけで本格的に「共に歩む」という道を開始するようになりました。

そんな感じで継続コンサルをしながら独参を続ける日々でした。
独参を重ねるに連れ私はどんどん「悟り」に対する概念化が起こってきてしまうようになりました。
私が仏門に入って修行しているのは、あの生悟りの先へ行くためです。
禅では決着するとか底抜けするとかハッキリするとか言うのですが、完全に悟るという意味です。
老師の様に解脱するという意味です。
私が体験しているような生悟りではなく、大悟徹底するということを指します。

私は次第に老師の法話を頭で理解してしまうようになっていきました。
悟りというものは人間の概念ではないものなのですが、凡夫(悟ってない人)はどうしてもそれを頭で「理解しよう」としてしまうからです。

私は次第に「決着する」ことに執着が起きるようになり、強く目指すようになっていきました。
それでは方向性が違ってしまうと思いつつも「達成したい」という過去の再現パターンが顔を出すようになったのでした。

そして自分のやっているコンサルと修行している禅の内容がどうしても相反するので不安がよぎるようになってきました。

私の行うコンサルティングは脳の機能をベースとした認識と概念の世界を扱う仕事であり、誤った自己像や歪んだ認識を是正していくことで生きづらさを解消するものです。
つまりシナプスの可塑性を利用して脳回路を生理的に変化させたり前頭前野を発達させるための意図で設計した講話をしていくことで認識を変えることをしていくものなのです。

でもこれって真理ではなく概念を変化させていくものだから、自分が歩んでいる禅の道とは関係のないことです。
自分は悟っていないのだからそれしかできないこと、自分のできることを誠実にやるしかないと頭ではわかっていても、どうしても「外れたことをしているのではないか」というほんのりとした不安が、ヒタヒタと湧いてきてしまうのです。

仕事があのまま信金で務めているとか司会者のままだったらこの葛藤は起きないのだけど、「心のこと」とか「生き方」みたいなことに関係する仕事をもともとしていたから、ここは気になるところでした。

それを正直に老師に白状したところ「認識を扱う範囲ではそれはそれで効果があることは事実なんだからやればよい」と助言を受けました。
私のような未熟者ですと、こういったとき方向性を示してくれる師匠がいるということは本当にありがたいことだと感じます。
昔出会ったメンターも、お世話になったコーチにも、困ったり迷ったりしたら自分のことを誤魔化さずその時の心情や考えをすべて白状して、アドバイスを仰いできました。
先達の背中を見てついていき、そのアドバイスを受けることは、とても有益なものであるといつも感じます。

そんなわけで改めて今自分に出来ることを誠実に行っていく決意をしてコンサルをお受けしている日々です。
私にはまだ歩んでいく先があるのだけど、自分が歩んできたところまではクライアントさんをお連れすることができる。
そのように思っています。

そしてこのあたりからこれまでのどんな不思議な体験とも違う感覚を感じるようになりました。

その感覚というのはあえて言うなら「在る」という感じです。
それはつかむことはできず、言葉で表すことができず、チャネリングの時の様に何かを話しかけてくることはないし、温度もないし、音もない。

「優しさ」や「愛」と形容したいようなニュアンスが含まれているかと言われたらそうでもない。
ただそれは在って、神様のような擬人化されたものではなく、ただただ、在るという感じです。
どこかで「思考は雲のようなもので、それが晴れた時に全体である青空が現れる」みたいな表現を聞いたことがありますが、それに似ていると思います。
とにかく、それは在って、なんというか静寂とかが合う気がしてて、生地みたいな感じで、急に現れたのではなく消えることもないけど、ごく普通の感じですが、それが在る。

もちろん「在る」についても聞いたことがあったけど(なんかインドの覚者とかが使うイメージ)一体それってどんな感じだよ~?とか思っていたんですが、これのことかぁなるほどなぁって思いました。
確かにこれは言葉で表現するのは難しい。
しかしこれも特別なことではなく灯台下暗しって感じで誰でも感じているそれなのですが、あれこれ悩んで感情に振り回されていた頃にはやっぱり在っても感じることができないものではありました。

これも「在るをわかるぞ!」とか全く思っていなかったのがよかったと思います。
そんなこと考えもせず気づいたら「この感じ、なに?」という感じで「あ〜、コレが例のあれか」みたいに気が付きました。

で、しばらくはまたこれ「わかった~」みたいな気持ちになってしまったものです。
でもこれを取り立てるとよくないんだろうなと思って放っておいたらそのうちこの感覚の自覚のようなものがあってもどうでもよくなっていきました。
見性とかワンネスとかもそうなんですが、そういう「特別さ」みたいなものを握りしめるとロクなことがないのです。
とはいえ元来私はめっちゃ「ええかっこしい」の「イキり」なので、特別さを特別なものとして取っておきたくなってしまうのですが、それしたら良くないとは知っているので流すようにしています。

そんな感じで私は、機能不全家庭に育ったり、その余波で荒れた若者時代を過ごしたり、不妊に悩んだり、死産して死にかけて悲しみに暮れたり、でも結果的に子どもを二人授かることが出来たり、起業して成功したり、それで逆に挫折したり、アダルトチルドレンを治したり、オカルト色の強い体験をしてみたり、悟りの体験をしたら虚無に陥ったけど立ち直ったり、ついには仏門に入ったり、でもそれとは関係のない仕事をしていたり、なんだりかんだりして、現在にいたっています。

長かった自叙伝も次で終わりです。

続く。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集