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ウィトゲンシュタインの解明は実質的に「言語外の対象」が前提となっている(ただそれを無視しているだけ)

「語りえない」ものとは? ~ 野矢茂樹著、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む、第1~3章の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report35.pdf

の続き、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著、筑摩書房、2006年)第4章(75~99ページ)の分析は、じっくりやっていこうと思います。細かいトピックを綿密に分析していきたいので・・・

だいたい次のような内容になると思います。

★ウィトゲンシュタインの解明は「言語外の対象」が前提となっている(ただそれを無視しているだけ)
★論理空間=有意味な命題(真偽ではなく)を前提として分析を進めているので、結果として言葉―対象の関係を(ある程度?)歪めることなく説明することが(結果として)できている
★逆に対象を考慮したフレーゲが対象と言葉との関係を歪めた二階論理を形成してパラドクスに陥っている

野矢氏は以下のように説明されていますが・・・

フレーゲにとって関数とは世界の対象とともに働く実質をもった道具立てであり、だからこそ、関数それ自身も対象として再び関数の入力項になりえたのである。しかし、「論考」の場合は関数はただ言語のあり方を整理するための便法にすぎない。それはそれ自身対象となりえるような実質をもたない。ただの入力項たる名と出力項たる命題の対照表にすぎない。いわば、ウィトゲンシュタインは関数を徹底的にノミナルに捉えるのである。

(野矢、91ページ)

・・・この見解とは逆に、ウィトゲンシュタインの手法の方が命題と対象との関係をより正確に維持しながら「言語のあり方」を説明することに成功(?)しているように思えます。関数を「x - a」というふうに単純化することでニュアンスの恣意的な操作から免れているのではないでしょうか。
 そして、

「ポチは白い」:有意味な命題
「白いは重い」「ウィトゲンシュタインは2で割り切れる」:ナンセンスな命題

という区分は結局のところ、

文章が有意味である=論理形式

ということです。それでは文章(命題)が有意味であったりナンセンスであったりするとはどういうことなのでしょうか? これは既に私が説明したように、「ポチは白い」は像として想像したり描いたりできるからこそ有意味なのであり、「白いは重い」「ウィトゲンシュタインは2で割り切れる」は像として想像したり描いたりできないからこそ、ナンセンスなのです。

 ただ「富士山-走る」(野矢、89ページ)は論理空間としてナンセンスと言い切れるのかどうか・・・山から突然足が生えて走り出すような漫画を描くこともできますし想像もできます。しかし現実世界を考えるとナンセンスです。「ウィトゲンシュタインが宇宙飛行士となってロケットに乗って旅立つ」というのは現実世界を考えるとナンセンスですが、想像はできます。
 ラッセルのパラドクスの問題に直接は影響なさそうですが、野矢氏・ウィトゲンシュタインの説明はこのあたりのあいまいさの問題を伴っていると言うこともできそうです。


拙著、

ラッセルのパラドクスに関して:「二階の述語論理」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report34.pdf

・・・は、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む、の4章をちゃんと読む前に、野矢氏の『論理学』を参考に自分の見解をまとめたものです。結果的に、ウィトゲンシュタインとかなり共通する考え方になっているような気がします。

 ラッセルの述語「w(x)(xは自分自身に述語づけられない述語である)」は与えられた定義域の上で健全に働きうる。しかし、w自身をその定義域に繰り込むとき、その定義域は変化し、それはもはや同一の命題関数wではなく、別の命題関数w'となる。それうえ、「w(w)かつ(w(w)ではない)」という矛盾も生じない。それはただ、「w'(w)かつ(w(w)ではない)」にすぎないのである。

(野矢、99ページ)

・・・の部分には私も同意します。ただ、そこで「定義域」というものがいかにして成立しているのか、というところがウィトゲンシュタインと私とで見解が異なるところです。定義域は、

有意味な論理空間=言葉の対象として事実・事態が現れうるもの

により決まってくるものであり、「言語外の対象をいっさい要請しない」(野矢、93ページ)ものでは決してありません。そして対象とは事実でもあり事態でもあるのです。

 あと、そもそも「『曖昧』という概念は曖昧である」(野矢、83ページ)という命題(?)は真と言えるのでしょうか? 概念そのものが曖昧であるという保証はあるのでしょうか? 曖昧ということにおいて明確ではないのか、とかいくらでも突っ込みどころがあります。
 また、「『曖昧』という概念」といった時点でそれはそもそも述語なのでしょうか? 「その問題に対するAさんの回答は曖昧だった」というとき、その「曖昧」は具体的なAさんの回答の性質を示しています。それゆえに述語であると言えるでしょう。しかし「『曖昧』という概念」と主語にした時点で、「その問題に対するAさんの回答は曖昧だった」という述語としての曖昧が指し示す対象とは全く異なるものとなってしまっていないでしょうか? 述語としての曖昧と、主語としての曖昧(しかも「『曖昧』という”概念”」と余計な言葉が加えられている)とは全く別物であることは明らかです (このあたりウィトゲンシュタインの見解と共通する部分があるかも)。

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