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言語使用のあり方は言語外の対象によって決められる ~ ラッセルのパラドクスに関するウィトゲンシュタインの解明について

言語使用のあり方は言語外の対象によって決められる
~ラッセルのパラドクスに関するウィトゲンシュタインの解明について

(野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第4章の分析)
http://miya.aki.gs/miya/miya_report36.pdf

できました! 1章を加えて、その他の部分も手直ししています。PDFファイルで14ページです。
 ラッセルのパラドクスに関するウィトゲンシュタインの見解は、私のものと意外に共通点があって少々驚いています。
 ここを理解してさえいれば、論理学や様々なパラドクスにおける詭弁を明確に指摘することができると思います。

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 本稿は、野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)の第4章(75~99ページ)の分析である。1~3章については、

「語りえない」ものとは? ~ 野矢茂樹著、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む、第1~3章の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report35.pdf

で既に分析している。事態、事実、対象、命題、名、像といった用語のより正確な位置づけ、言語の有意味性の問題について考察した。
 第4章はラッセルのパラドクスに対するウィトゲンシュタインの見解に関する内容である。私はラッセルのパラドクスについて、

ラッセルのパラドクスに関して:「二階の述語論理」の問題点
http://miya.aki.gs/miya/miya_report34.pdf

をまとめたのだが、本稿はウィトゲンシュタインの見解を参考にして上記レポートからもう一歩進めた内容になったと思う。主な論点は次のとおりである。

・ウィトゲンシュタインの解明は(ウィトゲンシュタイン自身、あるいは野矢氏の説明とは異なり)実質的に「言語外の対象」が前提となっている(ただそれを無視しているだけ)。有意味な論理空間(有意味な言語表現)かどうかは、言葉の対象として事実・事態が現れうるのかどうかで決まるからである。
・命題の有意味性を前提にしているため(=実質的に言葉と対象の関係を前提としているため)、結果としてウィトゲンシュタインは、ラッセルのパラドクスが言葉と対象との関係を歪めたために生じていることを明らかにすることができている。
・しかし(野矢氏の説明による)ウィトゲンシュタインにおける可能世界とは、時に実現可能性であったり時に想像(空想)可能性であったりというブレが見られる。

 野矢氏は、

ウィトゲンシュタインが解明に用いる関数はそのような言語外の対象をいっさい要請しない。あくまでも言語の中にとどまり、われわれの言語使用のあり方を整理する道具立てにほかならない。

(野矢、93ページ)

と解釈されているのだが、言語外の対象の有無が言語使用のあり方の前提となっている事実を認めさえすれば、ウィトゲンシュタインの説明をよりクリヤーに理解でき、さらにウィトゲンシュタインの解明における問題点を指摘することもできるのである。

<目次> ※ ()内はページ
1.ウィトゲンシュタインの解明は実質的に言語外の対象を前提としている (2)
2.言葉の持つコンテクスト、さらに想像可能性と実現可能性と論理空間 (5)
3.そこには言葉(名・命題)と事態しかない~ウィトゲンシュタインの言語観における問題点 (7)
4.(見せかけの)自己言及文において「定義域が変化する」「関数は同一ではない」とは具体的にどういうことなのか (11)
5.そもそもω(ω)、x(x)という関数は成立しうるのか (13)
引用文献 (14)

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