「語りえぬもの」とは直示的定義、言葉と対象事物とのつながりのこと

 野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)、とりあえず最後まで読みましたが、つっこみたい論点がいくつもあってどのようにまとめるか迷うところです。まずは独我論(的な考え方)と主体否定とがいかに両立しているのか、そのあたりから説明していこうと思います。

 今日は、「文庫本あとがきにかえて―――『哲学探究』からみた『論理哲学論考』」(野矢、349~377ページ)について、私の見解を述べてみます。
(※ 出典部分は『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』からのものです)


1.『探求』は『論考』と両立しない

『論考』における答えは、もちろん、「世界にア・プリオリな秩序は存在する」というものであった。では、『探求』の答えはどうか。答えは微妙にならざるをえないが、少なくとも『論考』のような意味において、すなわち私が「強いア・プリオリ」と呼んだ意味において、論理がア・プリオリな秩序として成立することは否定される。論理は、世界のあり方に、人間という生物のあり方に、われわれの経験のあり方に、依存したものでなければならない。少しフライング気味に言わせてもらおう。『論考』においては論理が世界と人間の可能性を限定した。だが、『探求』においてはまったく逆に、世界と人間の限界こそが論理を限定するのである。

(野矢、361ページ)

・・・これはむしろ私自身の見解に(同じではないが)近い。野矢氏がもしこの見解を受けいれられているのであれば、論理学の教科書は書き換えられねばならないはずである。
 ア・プリオリな論理などないのである。論理は世界のあり方、経験のあり方に依存しているのである。そして世界のあり方とはあくまで私たちの日々の経験から構築されているものなのである。野矢氏の見解に反して『論考』と『探求』は全く両立しえない、『論考』の基本的考え方は否定されねばならないと思う。


2.「語りえぬもの」とは直示的定義、言葉と対象事物とのつながりのこと

 直示的定義の不確実性は、論理を論理で説明しようとするから”循環”に陥ってしまうのである。「語りえぬもの」とは、まさにこの直示的定義、言葉と対象事物とのつながりなのである。”語り続け”(野矢、321ページ)たところで堂々巡りに陥るだけなのだ。(ヒュームもこのあたりの説明でぐだぐだになっていたような・・・)

たとえば一台の自動車を指差して「これを「ルートヴィヒ」と名付けよう」と言う。さて、何が「ルートヴィヒ」なのか。その車だろうか。いや、そのフロントガラスかもしれない。ワイパーかもしれない。その車の型かもしれない。色かもしれない。あるいは、その重さが、「ルートヴィヒ」なのかもしれない。解釈は無数に発散しうる。

(野矢、353ページ)

「名付けよう」と言った人にとって、それが自動車そのものであることは明白である。ここで既に直示的定義は本人にとって明確なものとなっている。既に成立している事柄なのだ。
 それをいかに他の人に伝達しうるのかという問題は、ここにおいては副次的な問題なのである。まず論理形式やら直示的定義が成立しうる原因・要因を考える以前に、本人にとって「ルートヴィヒ」という言葉とそれが指し示す(言葉の意味としての)対象物がつながりあっている、その事実が厳然としてあるのだ。
 この問題については、拙著

「語りえない」ものとは? ~ 野矢茂樹著、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む、第1~3章の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report35.pdf

の第9章(論理形式は対象を捉え内的性質を分析することで導かれる/正確な情報伝達の問題と対象を「捉える」こととの混同)と、第10章(すべての論理形式を知らなくても対象を捉えることができる)でも詳細に説明している。

そしてもう一つ重要な論点がある。それは

真理とはパーソナルなもの

ということである。言葉の対象物として指し示られたものを見て、私がそう思ったのであればそれがその時点における真理なのである。もちろんその真理は新たな経験(他の人とのコミュニケーションも含む)により変更しうる。そして新たな真理がそこに現れるわけである。”循環”に陥るのはこの論点を見逃している、先に絶対的真理を前提してそこに至る要因を探ろうとしていることも一因ではなかろうか。

 なお、真理がパーソナルなものである、ということについては以下のレポート

竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report37.pdf

の7章(真理とは与えられるもの・ただ現れるもの、そしてパーソナルなもの)で説明している。


3.規則のパラドクスについて

規則を提示しても、それに対する解釈は「論理的」には無数に可能となる。

(野矢、357ページ)

・・・本当にそうだろうか?

たとえば、教師が生徒に「+2」という命令を与える。生徒は、0から始めて順に2ずつ足していかねばならない。そこで生徒は「0, 2, 4, 6, ……」と書き出していく。順調に書いていたのだが、しかし、一〇〇〇を超えたところから、その生徒は突然「1000, 1004, 1008, 1012」と書き出すのである。

(野矢、256ページ)

・・・生徒の解釈は明らかに間違っている。なぜなら規則に合致していないからである。生徒が従っている規則は「1000までは+2、1000を超えたら+4になる」というものである。これは規則を明確に指示していないことから生じる誤解であってパラドクスではない。規則は明確に伝わっていなければより詳細な規則を加えれば良いだけである。規則は当然ア・プリオリなものではなく、人為的設定だからである。
 道しるべとしての矢印をどう解釈すれば良いか、という問題も、矢印のとがった方向に進むという規則を私たちは既に知っている。その行為的な事象そのものがその矢印という記号(あるいは言語の一種か)の意味であり対象となる事象なのである。


4.操作も整数の知識が前提となった上で成立している

『論考』では無限に対する唯一のアプローチを操作の反復に求めた。操作の反復が、数のもつ必然的な秩序(「3は2より大きい」「2+3=5」等々)を生み、真理操作の反復が、論理的な秩序(二重否定は肯定に等しい、等々)を生み出す。

(野矢、358ページ)

・・・しかし操作における動作を1回、2回・・・と数えている時点で既に整数の知識が前提となっているわけで、”定義域”を前提としていることに関してはf(x)=x+1と同様なのである。規則のパラドクス以前の問題である。
そして操作があくまで一つ一つの事象(そして対象)であること、操作が無限を構築しうるわけではないことは、以下のレポートで説明している。

論理空間とは何なのか ~野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第8章「論理はア・プリオリである」の分析
http://miya.aki.gs/miya/miya_report41.pdf


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