POST/PHOTOLOGY #0008/細倉真弓「散歩と潜水」×POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast 北桂樹
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Takuro Someya Contemporary Art、細倉真弓「散歩と潜水」について。
本展はモニタによって提示された2つの動画作品を中心に、額装されたモノクロ写真、布にサイアノタイプでプリントされ小作品とグリットで構成された組み作品の2種で構成された部屋と、プロジェクション作品1点とサイアノタイプの組み作品1点で構成された部屋での展示となる。全体が関連する作品のため、一部の作品だけを説明するのは難しいのだが、今回はそのうち、サイアノタイプの作品をグリッドで組み合わせた組み作品をスタートに細倉さんの特異性を明らかにしていこうと思う。
《2men》
では、具体的に作品を見ていく。プロジェクション作品《walking, diving #30 (2men)》とサイアノタイプの2点で構成された部屋の組み作品である《2men》は他の組み作品と同様、布にサイアノタイプのプリントがなされた縦長の作品9点によって構成された作品群である。
背中をこちらに見せ、座っている裸の男性とその背中の首元に何かを施しているもう一人の男性がいるひとつのイメージで、グリッドに組まれ、網点がPhotoshopのレイヤー合成のような効果でかけられている。網点の形状から、合成されたのは、おそらく雑誌の切り抜きのようなものではないかと考えられる。そのひとつのイメージを9分割して組み合わせているように見えるのが《2men》である。
《2men》が他の組作品と比べわかりやすいのはすぐ横にプロジェクション作品《walking, diving #30 (2men)》が提示されている点である。9つの縦型のイメージは左下の部分にあたる2枚がそれぞれ左に1枚分づつスライドされ展示されている。この展示は「dimensions variable」、つまり「展示可変」とされていている。
スクリーンベースの写真行為
展示タイトルや作品のタイトルにも入っている「散歩と潜水(walking, dving)」は現代におけるスクリーンベースの写真における写真行為について言及しているように思う。
本作ははじめにさまざまな種類のイメージを合成し、内包した巨大なひとつのイメージが創られている。細倉さんはその巨大な画像上を「スライド」し、「ズーム」しながら写真の隅々を訪れている。写真の中にデータ世界のの広さと深さを示して散歩と潜水とし、世界を再発見して見せているのだろう。細倉さんはその世界をモニタのフレームでフレーミングし、切り取る。その様はカメラを持ちながら街を歩き、ファインダ越しに世界をフレーミングする写真家のそれと同様である。つまり、最初に創られた巨大なひとつのイメージは地図であり、世界となるのだ。その様が2つのモニタで映像作品として提示されている(実際の移動と潜水とそれを操作する身体としての手という表裏)。
結論から言えば、本展で提示された作品によって、細倉さんはスクリーンベースで創られる現代の写真というものの写真行為の本質を作品の主題として鑑賞者に提示してみせているのが本展であると言える。
写真というメディアもニューメディア化され、コンピュータベースでメディアの制作が行われる現代において、この「スライド」や「ズーム」はもはや必須の行為と言える。並行移動する「スライド」を「散歩」とし、拡大縮小する「ズーム」を「潜水」として、PCのスクリーン上で行われる写真制作における写真行為として捉え、シャッターやフレーミングと同等な位置に引き上げる。それによって、スクリーン上で行われるスクリーンベースの現代写真の本質的な行為そのものを展示を通して見せる。巨大なイメージの中から、「散歩と潜水」によって発見された世界の部分をスクリーンショットによって切り出し、サイアノタイプやモノクロのプリントとしたのが、今回の作品ということになる。
サイアノタイプと展示可変
ここまででも現代における写真というメディアそのもの、その写真行為に対して自己言及的であるため十分作品として成立しているのだが、細倉さんの特異な点はそこからさらに進んだ部分にある。僕は現代写真における一つの重要な点を「イメージとオブジェクトの両方を表現領域として使う」という点を言い続けてきた。
スクリーンベースのデジタル写真の「写真行為」をテーマにして、なぜ「サイアノタイプ」なのだろうかという点が最初観た時点では理解できなかった。アーティストの選択の狙いを理解する鍵は「展示可変」であった。「サイズ可変」はミクストメディア作品が多くなった昨今時々眼にする表記ではあるが、「展示可変」というのはそれほど多くないように思う。組み作品であるこの作品を自由に組み替えて展示をして構わないというアーティストの指示は意思表示であり、そこにはアーティストの想いが顕れる。つまり、展示の方法におけるこの「展示可変」も表現であるということだ。
繰り返しになるが、《2men》はとなりにあるプロジェクション作品《walking, diving #30 (2men)》を観ればわかるようにひとつのイメージを9つに分割したようにみえる作品だ。しかし、これを9つのイメージで構成し、サイアノタイプで出力、展示可変とすることには意味がある。これらのイメージは単に「分割」されただけというわけではないのだろう。9つでひとつの全体としてのひとつのイメージを作り上げるのではなく、9つの個々のイメージによる組み作品なのだ。
何を言いたいのかというと、イメージ、つまり表象が背後で繋がっていることは鑑賞者である僕にこれを「ひとつの全体」として捉えさせる。しかし、この9点のイメージはサイアノタイプの不安定さによって、独立した9つのイメージとして存在している。「表象」されたイメージに捉われて、本質を見逃してしまうことに対する作品からの批判がここに含まれている。個々のイメージは個々のアイデンティティを持っていて、全体のための一部ではないのだ。そこのことを示すために、あえてトーンの揃わない不安定なサイアノタイプを出力の方法として選択。その「不安定さ」をイメージ生成の一部の機能として利用し統一されない不安定さをひとつの記号として用いている。異なる布の種類やシワ加工のあるなしも含み、個々のイメージを合わせた時に全体としてトーンを揃わせない。つまり、逆説的に個々のイメージに個性がでてしまうことを個々のイメージの「表現」として仕上げているのだろう(よくみれば、9点のうち右下の1点は白黒が反転されていることにもようやく気がつく)。これらのことを裏づけるのが「展示可変」だ。9つの個々のイメージは全体としてのひとつのイメージの部分として機能する必要は必ずしもないのだ。
確かに、逆説的に表象は利用しているが、イメージによって表象される全体やカテゴライズへの批評性ということをサイアノタイプというメディウムの特性、そして展示可変という展示方法というメタコミュニケーション的な領域を新たな写真表現の言語として開発し、伝えてくる点は写真の表現領域を揺さぶる表現となっていると考えられる。
まとめ
PCのスクリーン上を並行移動する「スライド」を「散歩」とし、拡大縮小する「ズーム」を「潜水」として、これらを現代の写真制作における写真行為として捉え、シャッターやフレーミングと同等な位置に引き上げる。それによって、スクリーン上で行われるスクリーンベースの現代写真の本質的な行為そのものを展示の主題としている。
巨大なイメージを地図、世界とし写真行為そのもののアップデートを可視化している。つまり、イメージ世界と現実世界の行き来が行われている。
サイアノタイプというメディウムの特性、そして展示可変という展示方法というメタコミュニケーション的な領域を新たな写真表現の言語として開発し、伝えてくる点は写真の表現領域を揺さぶる表現となっていると考えられる。
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