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POST/PHOTOLOGY #0009/「アルフレド・ジャー展」×POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast 北桂樹

▷POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast 北桂樹



広島市現代美術館「アルフレド・ジャー展」

今回は、9月の頭に訪れた広島市現代美術館で10月15日まで開催のアルフレド・ジャー展について。

アルフレド・ジャー(Alfredo Jaar)はチリ出身のアーティスト。鋭い視点で世界の歴史的悲劇や事件へと向き合い、映像制作、彫刻、写真などメディアを横断した表現によって、社会的、政治的な問題に焦点を当てたメッセージを提示する。ジャーは、その独自の視覚言語と積極的な社会的関与で国際的に高く評価されており、世界的な写真の賞であるハッセルブラッド賞の2020年の受賞者でもある。今回の展覧会は第11回のヒロシマ賞の受賞者となったジャーの受賞記念展として開催されている。

ジャーの作品は日本でもSCAI THE BATHHOUSE、KENJI TAKI GALLERYなどで扱いがあり、いくつかの作品をこれまでにも観てきた。2019年にも両ギャラリーで同時に展覧会が開催されており、KENJI TAKI GALLERYでは今回も展示があった《広島、長崎、福島》という時計の作品とライトボックスの作品。SCAI THE BATHHOUSEにはネオン管の作品、テーブル状のライトボックスのインスタレーションと写真に関するポスターの作品の展示であった。この時のポスター作品(下記画像の積まれた方)は現在も額装され、我が家ではリビングを飾っている。

アルフレド・ジャー《You Do Not Take a Photograph, You Make It.》(2013)
@SCAI THE BATHHOUSE 筆者撮影

アルフレド・ジャーとヒロシマ

ジャーはこれまでも「ヒロシマ」を題材に作品を制作し続けてきた。2019年もKENJI TAKI GALLERYで展示された作品は長崎、福島と併せて、広島という日本での歴史的、悲劇的な出来事に焦点を当てた展示であった。

今回、広島市現代美術館の展示は、「広島」を生き抜いた先人たちの言葉をスタートに「時間」を扱いながら、この歴史的出来事を数字によって表象するという方法をとり、人の生と死に関し深く入り込んだインスタレーションが展開されている。作品はそれぞれ独立したものであったが、それぞれに複雑に関連させながら、「生と死」という普遍的で重いテーマ、さらには広島の原爆という表象することが極めて難しい問題を丁寧に紡いでみせている。

アルフレド・ジャー《われらの狂気を生き延びる道を教えよ》
@広島市現代美術館 筆者撮影

展覧会入り口には2023年、この展覧会の準備中に亡くなった大江健三郎の短編集から引用された言葉を使ったネオン管作品が展示からはじまる。大江は、1994年にノーベル文学賞を受賞した作家で、第二次世界大戦とその後の混乱した時代の日本を背景とした作品で知られる。「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」は大江がイギリスの詩人ウィスタン・ヒュー・オーデンの詩句の一節を翻訳したもので、ジャーは1995年以降、核の時代を生きる私たちへと向けた重要なメッセージとして《われらの狂気を生き延びる道を教えよ》を用い、異なる言語で制作してきている。今回《われらの狂気を生き延びる道を教えよ》は英語版の展示も展示されていた。

アルフレド・ジャー《われらの狂気を生き延びる道を教えよ》
@広島市現代美術館 筆者撮影

(戦争を知る)当事者たちの言葉を大切に扱い、現代にその想いを再構築してみせるジャーの姿勢が現れた象徴的な作品が鑑賞者を迎える構成となっていると言える。

アルフレド・ジャー《広島、長崎、福島》
@広島市現代美術館 筆者撮影

英語版《われらの狂気を生き延びる道を教えよ》の奥には、2019年にKENJI TAKI GALLERYで展示されていた《広島、長崎、福島》の3つの時計作品が展示されている。1945年8月6日の広島、8月9日の長崎、そして2011年3月11日の福島という日本の歴史的な出来事を示すように、時計の針は時間と分を示す針はそれぞれ止まっている。しかし、秒針だけは動き続けているという作品になっている。2019年当時、この作品とはじめて向き合った時には実はこの動いている秒針に関してそれほど深い考察をすることが出来なかった。今回この展覧会を通して、ジャーが何を示そうとしていたのかを知ることとなった。

先人の言葉を丁寧に紡ぐ

その時計作品先に、ニキシー管という1950年代から70年代にかけて使われていたガス放電式の表示デバイスによる作品《生ましめんかな》が展示されている。

アルフレド・ジャー《生ましめんかな》
@広島市現代美術館 筆者撮影

暗闇にオレンジ色に光るニキシー管は壁面に縦横11×11に配列され、コンピュターによってプログラミングされている。「9」から「0」への「カウントダウン」ののち、雨とも涙ともとれるような「0」による流れるアニメーションの展開後、「生ましめんかな」の文字が浮かび上がる。

アルフレド・ジャー《生ましめんかな》ディテール
@広島市現代美術館 筆者撮影

この「生ましめんかな」ということばは、実際に自身も広島で被爆し、生涯を通じて反核を訴えた詩人、栗原貞子が原爆投下直後に避難していた地下室で、赤ちゃんが生まれた現場に遭遇したという実話が元になった詩の題名からとられている。20万人という死者を出した被爆の直後、生き残った人自身が「死ぬこと」よりも「生きていくこと」大変なその時に、その場にいた誰もが「新しい生命」のために動き、「生きていくこと」を肯定的に受け入れたという広島での出来事を象徴的に表す言葉である。

さらに足を展示室の奥へと進めると、暗い細い導線の先の広い空間に展示された作品が《ヒロシマ、ヒロシマ》である。

アルフレド・ジャー《ヒロシマ、ヒロシマ》
@広島市現代美術館 筆者撮影

この作品は大型のプロジェクション作品で、広島市街を空撮(飛行している高度から考えるとおそらくドローン)の映像が提示されている。広島の空をゆっくりと通り抜ける映像にはそれほど多くはないが、車や歩く人たちも映っている。その数が少ないことから、おそらく夏の時期の早朝の空なのだろうとは思うのだが、すでにここまでに広島の原爆に関わる問題に触れてきていることもあって、鑑賞者である僕の意識はその飛行高度が実際よりも明らかに低いにも関わらず、広島へと原爆を投下したアメリカ軍の爆撃機「エノラ・ゲイ」からの視線と結びついてしまう。

アルフレド・ジャー《ヒロシマ、ヒロシマ》ディテール
@広島市現代美術館 筆者撮影

やがて映像、つまり広島上空を飛行する視線は眼下にひとつの建物を捉えはじめる、「原爆ドーム」だ。「原爆ドーム」は戦前、広島県産業奨励館して知られていた建物であり、広島市の商業と文化の中心として機能し、さまざまな展示会やイベントが開催されていたという。映像に向き合う僕自身の視線がかつての視線とちがうことは飛行する視点の高度だけではく、この建物が、もはや広島県産業奨励館ではなく「原爆ドーム」であることだ。「原爆ドーム」の真上まで辿り着いた視線はそこから徐々に高度を下げ「原爆ドーム」へと降りていくような動きへと変わる。広島上空を移動していた爆撃機からの視線は広島へと投下された原子爆弾の視点へと切り替わる。ある高度に達したところで、映像は少し楕円に見える、切り抜かれた原爆ドームの真俯瞰の映像のみとなる。

アルフレド・ジャー《ヒロシマ、ヒロシマ》
@広島市現代美術館 筆者撮影

しばらくするとその楕円は回転をはじめ、その後、轟音とともにスクリーンそのものが上がり、奥から23機の産業用扇風機によって組まれた壁が現れ、会場には強風が吹き始める。時間にしておそらく1分弱の時間、風が吹いたのち、スクリーンが再び降りてきて、「ヒロシマ・ヒロシマ」と「HIROSHIMA・HIROSHIMA」の文字が「・」を共有して十字に提示される。

アルフレド・ジャー《ヒロシマ、ヒロシマ》ディテール
@広島市現代美術館 筆者撮影

広島の歴史的出来事を数字で表象するーカウントダウンが示すもの

暗くなった会場の中、スクリーンの右下の部分に、次のインスタレーションのスタートまでの「カウントダウン」が「100」から流れはじめる。なんとも言えない映像の余韻の中その「カウントダウン」を見ていて、ひとつ気がついたことがあった。ひとつ前の作品《生ましめんかな》にも「カウントダウン」はあったのだが、こちらは最後にカウントされる「0」がアニメーションされていた。しかし、こちらの《ヒロシマ、ヒロシマ》のカウントダウンには「0」がないのだ。全編を2周ほど通して確認したが、まちがいない。「0」をカウントせずに映像は広島市の上空の映像へと切り替わる。

アルフレド・ジャー《ヒロシマ、ヒロシマ》ディテール
@広島市現代美術館 筆者撮影

最初は些細な違いかと思ったが、繰り返し見ているうちにそれは大きな意味を持つのだということに気づく。実際には《ヒロシマ、ヒロシマ》にも「0」はあったのだ。上空真上から見て、少し楕円に見える「原爆ドーム」こそが「0」なのである。「0」はその後回転をし、風を生み出すというのがこの映像作品《ヒロシマ、ヒロシマ》が示していることだ。

あの「カウントダウン」は単に次の映像上演のスタートを待たせるためのものではなかったとうことだ。真っ暗な暗闇の中、真っ白な数字によってカウントされる「100」から「1」までの数字はある「時点」を目掛け、緊張感を作り出す。原子爆弾投下までの「カウントダウン」とも、それ自体を積み上げた人類の歴史を徐々に無にしていく愚かな行為とも捉えることができる。「0」は広島への原子爆弾投下まさにその時を「時点」、つまり「点」として表している。スクリーンが上がり、現れる産業用扇風機による「風」は「0」の回転から生まれた力だ。つまり当時の広島を生き延びた人たちが「0」から「生まれなおそう」「生きよう」という力そのものを「0」から生み出される風として表現し、鑑賞者に体験させている。よくよく見ていれば、最後に示される「ヒロシマ・ヒロシマ」と「HIROSHIMA・HIROSHIMA」の文字は全部出揃ったあとに、最初にカタカナの「ヒロシマ」が消え、その後「HIROSHIMA」が消えて、最後に「・」が残される。

アルフレド・ジャー《ヒロシマ、ヒロシマ》ディテール
@広島市現代美術館 筆者撮影

この「・」もまた「0」のことだ。つまり、「ヒロシマ・ヒロシマ」にしても「HIROSHIMA・HIROSHIMA」にしても「・」、つまり原子爆弾の投下を境にその前後で「生まれなおしている」ということになる。この展覧会において、ジャーが狙ったことのひとつに、「0」によって広島への原子爆弾の投下を表象し、その後、広島の人々が「生きるという選択」を力強く進めてきたということを表現しようとしているのだろうと考えられる。《広島、長崎、福島》にて止まった時間として示されたのも、それぞれの場所の「0」であり、動き続ける秒針はそれでも進もうとする人々の回復の物語なのであろう。その回復、生き直すことの活力となったことのひとつが栗原貞子の詩にあった赤ちゃん誕生のエピソードであり、あらたな生命の誕生、こどもたちこそが未来をつくるということだ。そのことが「0」にいた広島の人々に「生きる」という選択肢を与えたのだろうというジャーの思いが作品を跨いで繰り返し表現をされている。そのことは2階から階下へ進むとさらに確信へと変わる。

誕生を生きる力として表象するインスタレーション

アルフレド・ジャー《音楽(私の知るすべてを、私は息子が生まれた日学んだ)》ディテール
@広島市現代美術館 筆者撮影

美術館を訪れた時に室外から見て不思議に思った吹き抜けの部屋が階段を降りた先に見えてくる。ここには《音楽(私の知るすべてを、私は息子が生まれた日学んだ)》が展示されていた。これは2013年にジャーがテキサス州ダラスのナッシャー彫刻美術館からの依頼で作った作品を今回この展覧会のために広島で再演した作品となる。部屋の中心にはモミジの木が植えてあり、正面にはデジタル式の時計が提示されている。円形に沿ってベンチが備え付けられており、展示スペースの外には二つの円形のチャートが描かれている。

アルフレド・ジャー《音楽(私の知るすべてを、私は息子が生まれた日学んだ)》ディテール
@広島市現代美術館 筆者撮影

それぞれのチャートは12時間ずつを示しており、そこには82の時間が記載されている。この82の時間は広島市内の2つの病院で新生児が生まれた時間を正確に記録している。鑑賞者は24時間にそれぞれ1回だけ流れる82の産声をこの展示スペースで聞く作品となっている。さらにはその時間にこの吹き抜けスペースの上部から霧状の水がモミジの木へと振り注ぐような仕組みになっている。広島を象徴するモミジは新生児の声によって成長する。まさに広島の回復力へのオマージュと言える。この作品を見て、ジャーがこの展覧会で示そうとしていたことの輪郭がはっきりとしたように思えた。

生きることよりも死を選んだ「友人の死」

最後にもうひとつ《サウンド・オブ・サイレンス》について。この作品は展示室内に設置されたかなり大きな部屋とその内部での映像インスタレーションが作品となっている。映像作品はジャーの友人であった南アフリカの報道写真がスーダンで撮影した報道写真と彼の自死にまつわるものであった。そして、またこの作品の映像にも「カウントダウン」が使われていた。

戦争を生き延びた先人たちの言葉からはじまった本展の「アルフレド・ジャー展」の展示は、広島への原爆投下という人類の歴史的な(敢えていうならば)過ちを「0」として表象し、広島の人々のその後の「生きなおす」力を生命への賛美とともに表現してきた。一方で、ジャー自身の身近なところで「生きる」ことを選択できなかった友人の出来事を示してみせる。このことは、この展覧会の主題を歴史に対する反省の問題、つまり過去やある特定の話にしないようにしてみせる。「生きる」という選択をすることはアタリマエではない。そのことを私たちの前に普遍的な問題として提示して見せている。

まとめ

  • 写真作品で著名なアルフレド・ジャーであるが、自身が示そうとするコンセプトをさまざまなメディアを横断し、独自の視点で構築した映像言語(カウントダウンも含む)を用いて、提示してくる。

  • 広島への原子爆弾投下という極めて重いテーマを数字「0」で表象し抽象化、その先にある体験によって、広島の人々の生きることへ向けた力を示している。

  • 歴史の問題を単なる過去のこととしないための構造的な伝承をアートを通して行なっている。

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